扉の鈴が、昼手前のゆるんだ空気に小さく鳴った。 カウンター席に腰を下ろした遥斗は、ネクタイを少し緩めたまま、肩で息を整えていた。新は湯気の立つポットを置き、顔を上げる。 「おつかれ。今日はコーヒー、熱めにしておく?」 「……あ、はい。たしかに、そういう感じなんですけど」 新は遥斗の返事を聞く前に、視線をショーケースへ滑らせた。指先がほんの少し、たい焼きの並ぶほうへ迷う。その小さな揺れを見て、新は静かに言った。 「でも、今日はこっちだな」 「え」 「たい焼き。疲れてるときは、そっちのほうが落ち着く日がある」 遥斗は一瞬だけ目を丸くして、それから苦笑した。 「……じゃあ、それで」 「飲み物はあとでもいい。先に温かいのを持つと、少し楽になるから」 焼きたてを皿にのせると、甘い香りがカウンター越しにほどけた。遥斗はそれを見て、少しだけ表情をやわらげる。 「新さん、どうして分かるんですか。俺、今日はコーヒーのつもりだったのに」 「顔に出てた」 「うそだ」 「うそじゃない。店っていうのは、注文より先に空気が見えることがある」 新がさらりと言うと、遥斗は納得していないような、それでも拒めないような顔でたい焼きを受け取った。ふわりと湯気の立つそれを半分に割る前に、彼はしばらく黙っていた。 「……なんとなく」 「ん?」 「なんとなく、安心するんです。こういうの」 新は、その一言を逃さずに聞き返した。 「こういうの、って?」 「見た目もですけど、たぶん、手に持ったときの感じです。コーヒーって、飲むまでちょっと頑張るでしょう。でもたい焼きは、持っただけで、もういいかって思える」 「なるほど」 新は短くうなずき、カップを置く準備をしながら、遥斗の言葉を心の中で反芻した。やはり、甘い匂いはただの匂いではない。急いでいる人の足を止め、疲れた人の心をほどき、理由のない選択に見えるものへ、ちゃんとした名前を与えていく。 「じゃあ次は、コーヒーと一緒にしてみる?」 「いや、それはそれで贅沢すぎる気がします」 遥斗が笑う。新もつられて口元をゆるめた。窓の外では、通りを行き交う人たちが足を止めたり、また歩き出したりしている。新はその流れを眺めながら、遥斗の手元で少しずつ形をなくしていくたい焼きを見た。 理由はまだ、言葉になりきらない。だが、その輪郭だけは、確かに見えはじめていた。
喫茶店のたい焼き事情
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