エラベノベル堂

喫茶店のたい焼き事情

全年齢

小説ID: cmnhh7tx6000701motrquqaf0

2章 / 全10

開店してしばらくすると、喫茶リラの朝は決まって同じ匂いから始まった。豆を挽く苦い香りに、鉄板でほどける甘い気配が重なる。どちらが本来の主役なのか、もう店の内外でも判然としない。それでもマスターは、黙って湯を落とし、黙って生地を流し、黙って客の顔を見ていた。 その日、最初に来たのはスーツ姿の男だった。仕事へ向かう途中らしく、ネクタイを少し緩めながらカウンターに座る。いつもはブラック一択なのに、今日は何も言わずたい焼きも注文した。焼き上がりを待つあいだ、男は窓の外を何度も見やり、受け取った一匹を一口かじると、肩の力が抜けたように息をついた。マスターはその変化を、湯気の向こうで静かに見ていた。 昼には学生たちが続けて来た。試験前らしく机にノートを広げていたはずが、焼きたての香りに誘われて会話が増える。片方が真面目な顔で勉強を進め、もう片方はたい焼きの尻尾から食べるか頭から食べるかで熱心に語る。そんな取り留めのないやり取りが、妙に場を温める。近所の人々も、最初は持ち帰りだけのつもりで立ち寄るのに、焼き上がりを待つうちに椅子へ腰を下ろし、気づけば長居をしていく。 マスターは少し前から、その理由を考えるようになっていた。味だけなら、もっと上の店はいくらでもある。だが客たちは、焼き上がるのを待つ数分に心をほどかれ、隣の席のひとことに頬をゆるめる。その時間ごと、たい焼きを食べているのだ。店の静けさは変わっても、ただの賑やかさにはならない。誰かの小さなため息や、短い笑い声が、店内の空気をそっと編み直していく。 夕方、常連の婦人がいつもの席に座り、今日はコーヒーだけにすると宣言した。けれど鉄板の音を聞いた途端、結局一つ追加する。マスターは何も言わず、少しだけ焼き色を濃くした。予定通りには進まないが、それでも店は回る。むしろ、その揺れ方こそが、この場所の始まりなのかもしれない。マスターはそう思いながら、新しい生地を流し込んだ。

2章 / 全10

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