閉店の札を返したあとも、喫茶しおりにはまだ湯気の名残が漂っていた。コーヒーの深い香りに、焼きたてのたい焼きの甘さが重なって、夜の空気をやわらかく包んでいる。新はカウンターの内側で、はさみとテープを手にしていた。 「よし、貼るか」 独り言みたいに言って、ノートにためていた一行一行を、小さな紙片へ写し出す。遥斗は安心した顔をすると指先が少し落ち着かない。陽子は包装紙の折り目を必ず揃える。凛乃は入口でまず空気を見る。そんな観察結果を、店内の壁へ丁寧に並べていく。 その作業を見ていた陽子が、思わず吹き出した。 「ちょっと、新さん、それ貼るの」 「貼るよ。今日はたい焼きの日だから」 「日、なんですか、それ」 「こういうのは、名前をつけたほうが楽しい」 遥斗も苦笑しながら紙片をのぞき込む。 「俺、そんなに分かりやすいですか」 「分かりやすい」 「うわ、否定できない」 凛乃は自分の項目を見つけて、友人と肩を寄せた。 「入口で安心する、って……ほんとに書かれてる」 「言ったの、そっちだろ」 「でも、うれしい」 そのひと言が落ちると、壁の前に自然と輪ができた。初対面同士だった客まで、紙片をきっかけに笑い出す。誰かの癖が、誰かの思い出になっていく。気まずさの代わりに、話題がほどけていく。 「新さんは、何が一番多いんですか」 誰かがそう聞くと、新は貼り終えた壁を振り返った。 「たぶん、俺が見てるってことかな」 「え」 「みんな、たい焼きより先に、自分の話を見つけるから」 店内に、くすぐったい笑いが広がる。新はその音を聞きながら、最後の紙片を貼った。そこには、誰にも見せるつもりのなかった一行がある。 客の反応を見ているようで、いちばん楽しんでいるのは自分だ。 少しだけ肩の力が抜けた。壁いっぱいのメモを眺めると、たい焼きはただの甘い焼き菓子ではなく、会話の入口であり、沈黙をやわらげる合図であり、誰かと誰かをそっとつなぐ目印だった。 新はコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込む。甘さと苦さが混ざる店内を見渡して、満足げに目を細めた。 「……結局、この店の主役は味じゃないな」 陽子が首をかしげる。 「じゃあ何?」 新は、壁の紙片と笑い声の向こうを見た。 「人の気持ちをつなぐきっかけ、かな」 その答えに、誰もすぐには返さなかった。けれど沈黙は気まずさではなく、納得の余韻だった。やがて誰かが小さく拍手し、別の誰かがたい焼きを持ち上げる。壁のメモの前で、また新しい会話が始まった。新はその輪の端に立ち、静かに微笑んだ。
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喫茶店のマスターが人間観察をするコメディ。喫茶店なのにたい焼きだけがよく売れる。
