エラベノベル堂

喫茶店のたい焼き事情

全年齢

小説ID: cmnhh7tx6000701motrquqaf0

10章 / 全10

喫茶リラの夕方は、もう最初のころの静けさだけではなかった。焼きたてのたい焼きを待つ客の列は、いつの間にか店先の風景になり、店内にはコーヒーの苦みと甘い香りが同じように満ちていた。マスターはそれを見ながら、ようやく店のかたちが定まってきたのだと感じていた。 最初は喫茶店らしさを守ろうと、席の配置や注文の流れに少しだけ気を配った。だが客たちは、その整えられた空間の中で、思い思いの楽しみ方を見つけていく。急ぐ人は持ち帰りを選び、ゆっくりしたい人は窓際で湯気を眺める。焼き上がりを待つ間に交わされる短い会話は、知らない同士の距離を不思議なほど縮めた。あんこ派とクリーム派の言い合いまで、ここでは小さな笑いになってしまう。 その日、常連の婦人が珍しく友人を連れてきた。友人は最初、喫茶店なのに落ち着かないと言っていたが、焼きたてを受け取った瞬間、言葉をなくして目を丸くした。婦人は満足そうに笑い、マスターは黙って次の一匹を返す。客たちは味だけを求めているのではない。待つあいだの気配や、ひとことでほどける気持ちまで含めて、この場所を選んでいた。 マスターは少し考え、店の奥に古い本を並べ、中央の席は会話がしやすいようにゆとりを残した。ひとりで過ごしたい客には壁際の席を、急ぐ客には分かりやすい受け渡しを用意しただけだが、それだけで空気は見違えるほど落ち着いた。にぎやかさは消えず、むしろ静けさと並んで息をしているようだった。 閉店間際、いつも早足で帰る青年が、今日は最後まで窓の外を見ていた。やがて彼は、ここに来ると急いでいた気持ちまで焼き上がる気がすると笑った。マスターは返事の代わりに短くうなずく。喫茶店としての落ち着きと、たい焼き屋のにぎわい。そのどちらかを捨てる必要はなかったのだ。 灯りを落とした店内で、マスターは鉄板を拭き終え、明日の仕込みに手を伸ばした。たい焼きに惹かれて来た客も、コーヒーを味わいに来た客も、最後には同じ温度の中にいた。人の小さな日常が重なって、この店の個性になっていく。そう思うと、マスターの口元には、ほんのわずかな微笑が浮かんだ。

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喫茶店のマスターが人間観察をするコメディ。喫茶店なのにたい焼きだけがよく売れる。

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