エラベノベル堂

喫茶店のたい焼き事情

全年齢

小説ID: cmnhh7tx6000701motrquqaf0

9章 / 全10

ある日、喫茶リラのカウンターで、マスターはふと手を止めた。たい焼きが売れる理由を追っていたつもりが、どうやら答えはもう目の前にあった。焼きたての味だけではない。客たちは待つ時間そのものを楽しんでいる。鉄板の前で香りを吸い込み、隣の席のひとことに笑い、受け取る瞬間に少しだけ顔をほころばせる。その連なりが、たい焼きを特別にしていた。 窓際では学生が参考書を閉じ、あんこ派とクリーム派でまた言い合っている。奥の席では、常連の婦人が今日は一つで足りると言いながら、焼き上がりの音に耳を澄ませていた。マスターはその様子を見て、静かな喫茶店に甘い熱が差し込んでいるのだと知る。困るはずだった。だが実際には、客の声が増えるほど店は乱れるどころか、どこかやわらかく整っていく。 けれど、そのままではいけないとも思った。にぎわいだけが前に出れば、この場所らしい落ち着きが薄れる。マスターは少し考え、席の並びを変えた。待つ客が自然に目を合わせられるように中央の通路を広げ、ひとりで過ごしたい客には壁際の席を残す。焼き上がりを知らせる札も、小さく分かりやすいものに替えた。急ぐ人は急ぎ、話したい人は話せる。そんな当たり前の工夫だけで、店の空気は驚くほど落ち着いた。 その夜、閉店間際まで残っていた青年が、包みを手にしたまま言った。ここは、食べる場所というより、少しだけ気分を変える場所ですね。マスターは湯を注ぐ手を止めず、短くうなずく。喫茶店なのにたい焼きが主役になってしまったことが、いつの間にか店の個性になっていた。予定通りに並んだものだけでは、人は集まらない。少し外れた温度があるからこそ、誰かはまた来たくなる。 鉄板の上で最後の一匹がふくらむ。マスターはその丸みを見つめ、静かに息をついた。明日もきっと、コーヒーを飲みに来る者と、たい焼きを目当てに来る者が混じり合う。どちらも追い出さず、どちらも迎える。それでいいのだと気づいたとき、喫茶リラはもう、ただの喫茶店ではなくなっていた。マスターはわずかに口元をゆるめ、甘い匂いの残る店内に灯りを落とした。

9章 / 全10

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