店の奥は、夕方の明かりが少しだけ薄くなる。カウンターの向こうで新は手を止め、閉めかけたノートをもう一度開いた。そこには、常連たちの癖や声の調子、何気ない一言が細かく並んでいる。誰に見せるつもりもなかったはずの文字だった。けれど目を走らせるうちに、新はふと気づく。これは客の反応を知るための記録であると同時に、自分がいちばん楽しんでいたものでもあるのだと。 「……俺、こんなに見てたのか」 自分で書いたはずの一行に、少しだけ笑ってしまう。遥斗がたい焼きを持ったときの安心した顔。陽子が包装紙の折り目に見せた几帳面さ。凛乃が入口でほっとしたように笑った瞬間。思い返すほど、胸の奥が静かに温かくなる。 そのとき、店先の鈴が控えめに鳴った。 「新さん、今日のは何が入ってるんですか」 「え、今日は……」 声の主は、たい焼きを手にした常連だった。新は一瞬だけ言葉を探し、すぐに苦笑する。 「季節ごとに、少しずつ変えてる。気づく人は気づくけど、気づかない人は気づかないくらいに」 「えっ、そうだったんですか」 常連の目が丸くなる。その反応に、新は肩をすくめた。 「遊びみたいなものだよ。毎回同じだと、こっちが飽きるから」 「いや、それで飽きないんですね」 別の席から、陽子の声が笑い混じりに飛んだ。 「だから何度食べても面白いのかも」 遅れて入ってきた遥斗も、包みを開きながら頷く。 「言われてみると、前と少し違う気がします。こういうの、ちょっと嬉しいです」 凛乃も友人と顔を見合わせて、楽しそうに笑った。 「え、じゃあ前に食べたときと同じじゃないんだ」 「そう。だから飽きないのよ」 陽子がそう言うと、店の空気がふっとほどけた。新はノートを閉じるのも忘れ、客たちの笑い声を聞いた。たい焼きの中身を変えていたのは、店の工夫ではなく、自分の小さな遊び心だった。その事実が、こんなふうに笑いへ変わるとは思っていなかった。 「新さん、ずるいな」 遥斗が半分あきれたように言う。 「ずるい?」 「だって、気づかれないようで、でもちゃんと気づいてほしい感じがする」 新は返事の代わりに、少しだけ目を伏せた。たしかにそうかもしれない。気づかれなくても成立するし、気づけば少しだけ得をした気分になる。そんな余白が、この店らしいのだろう。 「じゃあ、次は何が入ってるのか楽しみにしていいですか」 常連の問いに、新は口元をゆるめる。 「もちろん。答えは、食べてからのお楽しみだ」 その一言で、また笑いが起きる。店内はさっきより少し騒がしく、少し明るい。新はその賑わいを見つめながら、ノートの余白に小さく一つだけ書き足した。飽きない理由は、味だけじゃない。気づくたびに、会話が生まれるからだ。
喫茶店のたい焼き事情
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