湊は暖簾を持つ手に、ほんの少しだけ力を込めた。駅前の空き店舗は、磨き上げたカウンターも、湯気を吸い込んだ白い壁も、ようやく自分の居場所になった気がしている。開店準備は完璧だ。寸分の狂いもなく茹でた麺、艶のあるつけ汁、彩りを添える薬味。味で負けるつもりはなかった。看板の文字を見上げ、湊は小さく息を吐く。 「よし。今日から、つけ麺・湊だ」 自分に言い聞かせるように呟いて、暖簾を掲げる。布が揺れ、外の夕方の空気が店内へすっと入り込んだ。通りを行き交う人々の視線が、一瞬こちらに向く。最初の一杯が出るまでの静けさは、期待と不安が同じ椅子に座っているみたいで落ち着かない。 やがて、入口の鈴が控えめに鳴った。 「いらっしゃいませ」 湊は笑顔を作り、注文を受ける。すぐに麺を茹で、手際よく器に盛り、湯気の立つ一杯を差し出した。見栄えも、香りも、自分でも惚れ惚れする出来だ。客が箸を持ち上げる。麺の端がつゆに触れた、その瞬間だった。 ふわりと、麺鉢から湯気がほどけた。 湊は目を瞬かせる。白いもやの中から、すっと人の輪郭が立ち上がる。濡れた黒髪、整った眉、やけに端整な顔立ちの男が、当然のようにカウンターの向こうへ現れていた。 「お待たせしました」 低く落ち着いた声。男は一度だけ軽く会釈すると、湊を見て、それから客へ向き直った。 「こちら、つけ麺でございます」 湊は固まった。いや、なんでいる。どこから出た。今、麺の器から出てきたよな。 「ちょ、ちょっと待て。誰だお前」 「失礼。まずはお召し上がりください」 男はまるで店員のような自然さで、箸の向きまで整える。その所作が妙に洗練されていて、止める隙がない。客は目を丸くしたあと、なぜか感嘆の声を漏らした。 「え、すご……」 「店員さん、めっちゃイケメン……」 ざわり、と店内の空気が変わる。誰かがスマートフォンを構え、別の客が小声で笑った。湊だけが置いていかれる。なのに、奇妙なことに、客たちは嫌がるどころか楽しげだった。むしろ熱気が増していく。 男は湊の混乱をよそに、カウンターの端で手際よく水を置き、空いた器を下げる仕草まで見せる。 「ここ、こんなサービスあったのか」 客の一人が感心したように言う。 湊は唇を引きつらせたまま、器の中を見下ろした。さっきまでただの麺だったはずの場所から、今は確かに現実味のある何かがこちらを見返している気がしてならない。 「いや、ない。絶対ない」 そう言いながらも、店内に漂う妙な高揚は止まらなかった。初日の静かな緊張は、もう別の熱にすり替わっている。湊は握った布巾を見つめ、これから何が起こるのか分からないまま、ただ次の注文票を受け取る準備をした。
湯気の向こうのつけ麺店
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