湊は店の前で、書き換えた看板を見上げた。つけ麺と、少しの縁。昨日までの勢い任せの文字とは違い、今日は妙に落ち着いて見える。自分で書いたくせに、少し照れくさい。 「よし。普通の食堂として、ちゃんと始める」 言いながら暖簾を整えると、開店を待っていた空気がすっと流れ込んできた。駅前の朝は慌ただしい。通勤客の足音、遠くのアナウンス、湯が沸く音。それらの隙間に、今までとは違う静けさを湊は見つける。 最初の客は、案外いつもの顔だった。少し寝不足そうな若い男が、カウンターに座って湊を見上げる。 「つけ麺、ひとつ」 「はい。ありがとうございます」 湊は湯気の立つ一杯を差し出した。客が箸を伸ばす。いつもなら、この瞬間に何かが起こる。そう身構えた湊の視界で、器から立つ湯気がふっとやわらかく揺れた。 「今日は店主の番だ」 低い声が落ちる。 次の瞬間、最初に現れた男が、湊の前の席に当然のように座っていた。濡れた黒髪に、整った顔立ち。初日に見た、あの端整すぎる男だった。 「……え」 湊は手にした布巾を落としかける。 「いや、待て。お前が客側に回るのか」 「はい」 男はあまりにも自然に頷いた。 「本日は、店主をもてなす番です」 「そんな番があるか!」 「あります。長く、ありませんでしたが」 言い切られて、湊は言葉を失った。客席の若い男は、なぜか状況を受け入れた顔で麺をすすっている。驚いて騒ぐより、先に味を確かめるタイプらしい。 「店主さん、食べないんですか」 「食べる。いや、食べたいけど、今それどころじゃ」 「どうぞ」 目の前の男が、丁寧に湊のための箸をそろえる。その所作が妙に慣れていて、逆に断れない。湊は観念して、席に腰を下ろした。湯気の向こうで、自分の作ったつけ汁が、いつもより少しだけ近く感じる。 ひと口食べる。うまい。 その一言が喉まで出かかった時、壁際の鏡がきらりと光った。 湊がちらりと目をやると、そこには満ち足りた顔の自分が映っていた。疲れ切った営業用の笑顔ではない。肩の力が抜けて、どこか安心した表情だ。その背後で、湯気の奥にいる男たちが、静かに片付けや配膳を続けているのも見える。 「……なんだよ、それ」 呟いた湊の声は、少しだけ震えていた。怖い。まだ怖い。なのに、鏡の中の自分は、まるでずっとこうなるのを待っていたみたいに落ち着いている。 「店主」 真正面の男が、穏やかに微笑む。 「あなたが一番、ここに必要でした」 湊は箸を止めた。笑うしかない、はずだった。けれど胸の奥に落ちたのは、冗談では済まないほどまっすぐな温度だった。 「……俺が、客だったのかよ」 「ええ」 「こんな店で?」 「こんな店だからです」 鏡の中の自分は、もう驚いていない。むしろ、少し誇らしそうですらある。湊は視線を落とし、湯気の立つ丼を見つめた。自分のために作ったことなど、今までなかった気がする。誰かの笑顔のため、店の評判のため、ちゃんとした店主でいるため。だが、この一杯は違う。 「……悪くないな」 そう漏らすと、男はほんの少し目を細めた。 店内では、見守るように働くイケメンたちの気配が、朝の光に溶けていく。湊は箸をもう一度持ち直し、今度はゆっくり麺をすすった。店の騒がしさは変わらない。それでも、店主自身がようやく息をつける場所になったのだと、静かに分かってしまった。
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イケメンがつけ麺屋を開店する。なぜかつけ麺がイケメンを提供する店になってしまうホラーコメディ。
