湊は湯気の向こうに、時計の針が二時半を指しているのをぼんやり見ていた。店は閉めたはずなのに、厨房だけはまだ息をしている。昼の喧騒を洗い流した床に、調理器具の影が長く伸びていた。 「よし」 湊は袖をまくり直し、深く息を吸った。 「もう驚かせるために作るのはやめる。座って落ち着ける店にする」 声に出すと、少しだけ心が定まる。器の形、麺の太さ、湯の温度。全部、今までより少しやわらかく、客が肩の力を抜けるように整え直す。味は変えない。けれど、尖った気配を削っていく。 「安心して座れる、か」 湊は小さく笑った。そんな当たり前が、この店ではいちばん難しいのかもしれない。 試作の麺を湯切りして、つけ汁と合わせる。静かな動作のはずなのに、厨房の空気がふっと揺れた。湊は箸を止める。 「来るなよ……今度は、本当に落ち着いたので頼む」 だが、器をカウンターへ置いた瞬間、湯気がひと筋、まっすぐ立ちのぼった。そこから現れた男は、今まで見た誰よりも整っていた。顔立ちの端々まで、無駄がない。立っているだけで空気が整うような、静かな美しさだった。 湊は思わず息を呑む。 「な、なんだよ、その完成度……」 男は湊を見て、やわらかく目を細めた。けれど、その笑みは客席へ向けるものではない。湊にだけ届く、見守るための微笑みだった。 「よく、ここまで整えましたね」 「え」 「安心の形は、作れます」 低い声が、不思議なくらい耳に残る。怖い。けれど、背筋を撫でる寒気の奥に、妙なあたたかさが混じっていた。湊は戸惑いながらも、目の前の男がただ脅かすためにいるのではないと、直感してしまう。 「店主を、見守るための顔……ってことか」 男は答えず、ただ静かに頷いた。その仕草が、どうしようもなく優しかった。 湊は器を見下ろす。自分の作った一杯は、確かに変わったはずなのに、呼び出される気配だけは、かえって澄んでいる。 「やっぱり、俺のやり方を変えないとだめだな」 口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締まった。怖いのに、放っておけない。異常であることと、人を救っていることが、同じ鍋の中で煮えているみたいだった。 男は黙ったまま、湊の手元を見ている。その視線には、監視でも嘲笑でもない、ただ店を支えるような静けさがあった。 湊は深く息を吐き、空になった器を持ち上げた。 「……方針、変えるしかないか」 言葉は震えていない。なのに、決めきれない重さだけが確かに残っていた。
湯気の向こうのつけ麺店
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