エラベノベル堂

湯気の向こうのつけ麺店

全年齢

小説ID: cmnhh9bl8000m01motoiohxho

9章 / 全10

青年は閉店後の厨房で、湯気の消えた鍋を見つめていた。客足は相変わらずある。けれど近ごろは、食べ終えた客の顔つきがそろってやわらかい。妙に満ち足りた表情で、知らない者同士が自然に会釈を交わす。仕入れ帳には、今夜は少し酸味を利かせると話が続くといった、彼の覚えのない走り書きが増えていた。青年は木箱を開け、店の奥にしまってあった器を手に取る。見た目は古びた鉢にすぎないのに、指先に触れると、じんわりと人の願いが滲むような気配がした。町の古い記録を当たり直した彼は、ついに店名の由来へ辿り着く。かつてこの土地には、客の欲望を受けては返す茶屋があり、美しさを求める心は、整いすぎた誰かの姿となって現れたという。だが返されるのは顔立ちだけではない。羨望や見栄が濃くなるほど、隣人との距離が少しずつ狂っていく。店の評判を支えていた甘い幻は、その代償だったのだ。 その夜、麺を上げた湯気の向こうで、ありえないものが立ち上がった。カウンターの奥に、店員のように端整な青年がひとり。と思えばその隣にも、もうひとり。つけ麺がつけ麺を食べに来たような、滑稽で静かな光景だった。だが彼らは麺に手を伸ばさない。ただ、互いの顔を見て、ほっとしたように肩の力を抜いている。青年はそこで悟った。器が映していたのは理想の顔ではない。見つけてほしい、並んで食べたい、ひとりにしないでほしい。そんな言葉にならない願いの行き先だったのだ。 翌朝、青年は看板を下ろさなかった。代わりに、締めの一杯を作り直す。昆布と鶏の澄んだ出汁に、焦がし葱と柚子をひとしずく落とし、麺は太く、つけ汁はやさしく整える。具は最初から分け合えるように、半分ずつ楽しめる小皿に載せた。飾るためではない。会話が自然に生まれるための一杯だ。昼どき、席に着いた客は以前より少ない。けれど誰も急がず、隣へ軽く会釈し、味見を勧め合う。鏡の向こうでちらついていた完璧な顔は、今日はひとつではない。笑う客たちの目元や口元が重なって、やわらかな幻になっている。青年が鍋を振るたび、その幻は少しずつほどけ、目の前の人の表情が確かに見えてくる。閉店間際、鏡をのぞいた青年は、そこに端整な店員を見た。だがそれは誰か一人の姿ではない。今日ここで交わされた笑顔が、湯気の中で結ばれたものだった。翌朝、店は以前より静かだった。けれどその静けさは寂しさではない。誰かを待つ呼吸のように落ち着いている。常連は急がず、知らぬ者同士で箸を譲り合い、食後の茶までゆっくり味わって帰る。ときおり湯気の向こうに美青年が見えても、もう誰も驚かない。それは理想の幻ではなく、この店で生まれた温かな関係の名残だった。青年は暖簾の端を整え、鍋に火を入れる。ここは人を飾る場所ではない。湯気のなかで、ひとりずつを隣へつなぎ直す場所になったのだ。

9章 / 全10

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