エラベノベル堂

沈みゆく船と楽団

全年齢

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9章 / 全10

甲板へ向かう最後の通路で、楽団はようやく全員がそろって立ち止まった。前方では救命艇へ急ぐ人の流れが波のように続き、背後では船のきしみが深くなっている。いまここで別れなければ、もう二度と同じ顔ぶれで音を合わせることはないかもしれない。誰もその言葉を口にしなかったが、沈黙の形で理解していた。 レオンは指揮棒を握ったまま、団員たちを見渡した。濡れた空気の中で、皆の頬は青白く、けれど目だけは妙に澄んでいる。ソフィアは震える指をそっと握り、ミナは胸に抱えた楽器ケースを確かめ、エドガーは何も言わずにうなずいた。打楽器の青年は、壊れそうな椅子を運び終えた手で額の汗をぬぐう。誰もがそれぞれの恐れを抱えたまま、最後の役目を待っていた。 「ここまでだと思うな」 レオンは静かに言った。 「今夜の音は、ここで終わらない」 ソフィアが小さく笑った。笑ったというより、泣く寸前の息を押しとどめた顔だった。 「終わらせない、ですね」 ミナは少し遅れて、思い出したように口を開いた。 「私、最初は自分の音だけで精いっぱいだった。でも、今は違う気がします」 エドガーが視線を落とし、古いケースの縁を指でなぞる。 「若いころ、私は舞台の外を見ようとしなかった。音だけが全てだと思っていた。だが、こんな夜が来るなら、もっと早く気づくべきだった」 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。後悔は重い。だが重さの向きが変われば、背を折るものではなく、足を踏みしめるための石にもなる。打楽器の青年がぽつりと漏らした。 「次は、もっと上手くやれる気がします」 「次があるならな」 誰かのつぶやきに、軽い笑いが起きた。張りつめた空気の中では、それだけで救いだった。レオンはその笑いを受け止め、棒を胸元に戻した。これが最後の合図になるかもしれない。それでも、今この瞬間を空白にしたくなかった。 「準備できる者から行け。残る者は、ここで一曲だけ鳴らす」 その提案に、皆がいっせいに息をのんだ。最後の演奏は別れのためではない。送り出すための灯りだ。ソフィアが弓を上げ、ミナが鍵盤の位置を確かめる。エドガーは目を閉じ、青年は静かにリズムを数えた。 やがて、短い前奏が夜の通路に溶け出した。乗客が振り返り、足を止める。楽団員たちは互いを見て、もう迷わなかった。誰かが救命艇へ向かい、誰かが戻り、誰かが最後までここに残る。けれど音はひとつだった。 レオンが振り下ろした棒の先で、恐怖も後悔も一度だけ同じ高さまで持ち上がる。次の瞬間、それは海風にほどけ、未来へ渡されていく。誰ひとり船と運命を共にするためではなく、持てる限りの音を抱えて、生きて帰るために。

9章 / 全10

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