エラベノベル堂

沈みゆく船と楽団

全年齢

小説ID: cmni96fmf003901mzv5g6q9og

8章 / 全10

ミナは肩で息をしながら、船員の男から広げられた海図をのぞき込んだ。湿った紙の上には、細い鉛筆線で通路と扉が記されている。だが今は、書かれたはずの道の半分が閉ざされ、残りも傾きでずれて見えた。男は早口で何かを言ったが、揺れた床が声を飲み込み、要点だけがぼやけて届く。 わずかな情報だけで判断しなければならない。ミナは唇を噛み、図面の端と通路の壁を何度も見比べた。曲がり角ごとに聞こえる靴音、開閉のたびに変わる風の流れ、遠くで鳴る警笛。そのすべてが、紙にない情報だった。彼女はかつての練習で、師から言われたことを思い出す。音は譜面だけではなく、沈黙の間にもある。今は人の行き先も同じだ。 「この先は塞がっています。右の階段は使えません」 ミナは断定した。自信があるふりをしたのではない。迷いを飲み込み、見えているものだけをつなぎ合わせた結果だった。船員の男は一瞬だけ目を丸くし、すぐに頷く。そこにあるのは命令への服従ではなく、見抜かれたことへの信頼だった。 彼女は走った。曲がり角で立ち止まり、壁の湿り気で階層を確かめ、乗客の流れが詰まる場所を先回りする。背後でレオンの短い合図が響き、ソフィアの小さな旋律がそれに重なる。音と声が絡み合うたび、暗い通路の輪郭が少しずつ見えてきた。 やがて、閉鎖されたはずの扉の先から、救命艇へ通じる残された通路が開いていた。だがそこには、誰よりも先に進んでいたはずの男の姿がなかった。さっき海図を握っていた船員が、逆流する人波の中で倒れかけている。 ミナは足を止めた。地図は役目を終えたのではない。最後の一行は、まだ書かれていなかったのだ。彼女は迷わず引き返し、男の腕を取って声を上げた。 「こちらです。今なら間に合います」 その言葉は、自分自身に向けたものでもあった。恐怖を振り切るのではない。恐怖を抱えたまま、見えた道を信じる。彼女が先頭に立つと、乗客たちの足がそろい始める。わずかな確信が、次の一歩を生んだ。 救命艇の灯りが見えた瞬間、ミナは初めて海図を胸に抱きしめた。紙はもう頼りない。ただ、そこに描かれていないものまで読み取れた自分の目が、今夜の唯一の道標だった。

8章 / 全10

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