エラベノベル堂

ホールに響く真実

全年齢

小説ID: cmninstwt003m01mzry1k87h9

2章 / 全10

翌朝、蓮はまだ客席の灯りが落ちきらないうちにリハーサル室へ入った。昨日の三台目のことが頭から離れず、工具箱を抱える手にも自然と力が入る。舞台では弦楽器の音合わせが始まり、薄い和音が天井へほどけていった。蓮は客席側に回り、ひと席ずつ音の抜け方を耳で確かめる。すると、中央寄りの列で、ひときわ小さく息を飲む気配がした。演奏者の一人が、今まさに鳴ったはずの音に目を伏せ、指先を止めている。 その音は、事前の打ち合わせでは出ないはずの高さだった。楽器の組み合わせからして、混ざる余地はない。なのに、確かに一瞬だけ、針のように鋭い響きが紛れ込んだ。蓮は譜面をめくる音に紛れながら記憶をたどる。昨夜の調律記録、弦の張り、湿度、搬入時刻。どれも正常に見える。だが正常の並びの中に、ひとつだけ浮いている箇所があった。三台目の調律後、誰かが再び蓋を開けた痕跡がある。 リハーサルが止まった隙に、蓮は舞台袖へ下がり、記録簿を確かめた。筆跡は自分のものだが、時刻の欄にだけ微かな擦れがある。後から上書きされたようにも見えた。さらに弦の摩耗を示す数字を照らし合わせると、短時間で起きたはずの変化がいくつか混ざっている。単なる故障なら説明はつく。けれど、こうした食い違いは偶然にしては整いすぎていた。 「なにを見ている」 背後から投げられた声に振り向くと、舞台監督が腕を組んで立っていた。蓮は記録簿を閉じ、何でもないふりで礼をする。だが胸の奥では、静かな火が確かに灯っていた。音は嘘をつけない。人は隠せても、楽器は隠しきれない。蓮はそう信じて、この違和感の輪郭を指先でなぞるように追い始めた。ホールの奥で、見えない糸がどこかにつながっている。そんな予感だけが、確かな重さを持っていた。

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