エラベノベル堂

ホールに響く真実

全年齢

小説ID: cmninstwt003m01mzry1k87h9

9章 / 全10

最終リハーサルの夜、ホールは息を潜めていた。蓮が舞台袖で最後の調律を終えた瞬間、低い弦がひとつだけ、嫌なほど乾いた音を返した。次の小節で照明が落ちるはずのタイミングに、客席側の非常灯が一斉に瞬く。誰かが館内電源の系統を切り替えたのだ。 舞台監督の怒号が飛ぶより早く、蓮は鍵盤に手を置いた。暗闇の中でも、音は逃げない。むしろ、何が欠けたかを教えてくれる。彼は奏に短く目配せし、首席奏者へ合図を送る。弦は止めず、木管は半音だけ保ったまま、全員が耳で互いを探った。混乱は続いたが、誰も音を投げ捨てなかった。蓮は客席の響きが急に痩せたことに気づき、舞台脇の点検扉へ走る。 扉の内側には、見覚えのある湿度装置がもう一台増えていた。しかも配線は雑に隠され、外す直前の痕だけが新しい。そこへ遅れて駆け込んだ監督が息を切らせ、蓮の肩越しに中を見た。その顔色が変わる。装置の下から、古い名札が半ば焼けたように出てきたのだ。創設者の名を冠した、今は使われていない保管札だった。 「なぜ、これがここに」 蓮は名札を拾い上げ、指先で裏をなぞった。微かな刻印があった。改修業者の印ではない。伝統行事で使う箱札と同じ、旧式の管理記号だ。彼はそこで、すべての糸が一本につながるのを感じた。乱れは外から持ち込まれたものではない。長く守られてきたはずの習わしの中に、最初から仕掛けが紛れ込んでいたのだ。 そのとき、客席の奥で一つだけ拍手が起きた。創設者の老女だった。杖を床に置き、静かに立ち上がる。彼女は笑っていたが、目はまっすぐ蓮を見ていた。 「ようやく気づいたね。あの儀式は、残すためのものじゃない。外から金を引き出し、都合のいい者だけを残すための飾りだよ」 蓮の胸に、冷たいものが落ちた。疑っていた監督でも、奏者でもない。最も古い権威そのものが、音を守る顔で音を縛っていた。だが隣で奏が小さく息を吸い、首席奏者が譜面を閉じた。その音だけで、蓮は立て直せると思った。 彼は名札を握り直し、壊れかけた舞台の中心へ戻った。真実は、最後の一音が鳴る場所にあった。

9章 / 全10

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