エラベノベル堂

潜入捜査官、罠を破る

全年齢

小説ID: cmnkiyux8000001s2ptmisbom

1章 / 全10

夜明け前の埠頭は、潮の匂いより先に錆びた鉄の気配がした。葉月は車の影に身を寄せ、封筒の中身をもう一度だけ確かめる。偽名の身分証、古びた通行証、そして取引現場に出入りする者たちの断片的な写真。どれも本物に見えるよう作られているが、彼女に許されたのは、疑われない程度にだけ本物へ近づくことだった。 今夜、港の倉庫街で違法な取引が行われる。扱われるのは人の手に余るほど危険な代物だと聞いていたが、内容より重要なのは、そこに誰が出入りし、どの線がどこへ伸びているかだった。葉月は情報を辿るためにここへ来た。直接踏み込むのではなく、気配の隙間に紛れ込む。それが彼女に与えられた役目だった。 鏡越しに映る自分は、いつもの捜査官ではない。髪は無造作に結い、化粧は少し濃く、口元には見慣れない強気がある。名前も経歴も、今夜だけの借り物だ。葉月は息を整え、胸の奥に本来の自分を押し込めた。正体を隠すとは、嘘をつくことではない。必要な輪郭だけを残し、余計な感情を殺すことだ。 車を降りる前、耳に仕込んだ通信機が小さく震えた。指示は簡潔だった。目立つな、深入りするな、だが何も見逃すな。矛盾した命令だと葉月は思ったが、慣れていた。危険な現場ほど、正解はひとつではない。 倉庫街へ続く道には、夜勤明けの労働者に見える男たちが数人立っていた。彼らの視線は無造作を装いながら、通り過ぎる車の一台一台を量っている。葉月は足を止めず、わずかに肩を落として歩いた。手はポケットに入れ、視線は少しだけ下へ。ここで大事なのは強さではなく、何も知らない人間の歩幅だった。 入口に近づくほど、空気は重くなる。荷台の開閉音、短い合図、紙片の擦れる音。そのひとつひとつが、見えない商談の輪郭を作っていた。葉月は胸の内で、最初の記録を刻む。人数、警備、出入りの順路。慎重に、静かに、だが確実に。彼女は今、別人として立っている。戻るべき自分の顔を忘れないために、まずは完璧に演じ切る必要があった。

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