「桜羽原ひなたさん、あなたに新しい任務です」 薄い会議室で、机の上の資料が静かに滑った。ひなたは学生証の顔写真を脳裏に重ねながら、無表情を保つ。潜入先は、郊外のローション工場。表向きは化粧品関連の下請け、だが実際には違法なドラッグの流通拠点だという。 「学生のふりを続けてください。単身で入って、雑用から始める。内部の構造と人間関係を、目立たず拾ってきてほしい」 ひなたは小さくうなずいた。派手な調査は向かない。だが彼女には、もうひとつの武器がある。相手の感情をわずかに揺らし、集中を少しだけずらす力。強引に操るほどのものではないが、警戒を緩めさせるには十分だった。 翌日、彼女はくたびれた鞄を肩にかけ、工場の事務所に立っていた。甘ったるい原料の匂いと機械油の気配が混ざり、鼻の奥をくすぐる。案内された更衣室で作業着に着替えると、現場の男が無愛想に指をさした。 「新人か。掃除、資材運び、伝票の束ね直し。できるな」 「はい、たぶん」 頼りない返事に、相手の肩の力が少し抜ける。ひなたはその隙を逃さず、目線を下げたまま周囲を見た。通路は思ったより複雑で、白い壁の先にいくつも扉がある。人の出入りは少ないのに、空気だけが妙にざわついていた。誰かが誰かを見ている。そんな感覚が、工場の隅々に染みついている。 昼前、彼女は空き箱を積みながら、年配の作業員と短く言葉を交わした。軽い相づちに合わせて力を少しだけ整えると、相手は警戒を解き、休憩所の場所や、奥の区画には勝手に近づくなと教えてくれた。ひなたは礼を言い、頭の中で線を引く。見せたくない場所がある。そこに答えがある。 仕事は単純で、だからこそ観察の余地があった。ひなたは床の汚れ、運搬台車の動線、鍵の管理を記憶に刻み込む。雑務のふりをしながら、工場そのものを一枚ずつ剥がしていくように。 夕方、窓の外に落ちる光が白く傾いたころ、ひなたは空の段ボールを抱えて通路を曲がった。遠くで誰かが低い声を交わしている。まだ始まったばかりの潜入は、静かで、それでいて確かな異物感を孕んでいた。彼女は足を止めず、ただ一度だけ息を整えた。ここから先が、本当の仕事だ。
白衣の潜入捜査官
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