美咲は逃げるように図書館を後にし、アパートへの道を急いだ。夕暮れの商店街を通り抜けながら、今日一日の出来事を反芻する。男性たちの熱っぽい視線、荒くなる呼吸、そして自分に向けられる欲望。すべてが彼女のせいだと、そう思えてならない。 「……なぜ私なんだろう」 誰に聞かせるでもなく、美咲は呟いた。二十四年間、この体質と共に生きてきた。思春期の頃から、男性たちが彼女を見る目はどこかおかしかった。最初は気のせいだと思っていたが、年齢を重ねるごとにその傾向は顕著になった。香水も制汗剤も、あらゆる対策が裏目に出る。 アパートの階段を上り、鍵を開ける。見慣れた玄関が目に入った瞬間、安堵感が胸を満たす。ここだけは安全だと思っていた。 「帰ったか」 リビングから聞こえた声に、美咲は足を止めた。義父の和彦がソファに座り、静かにこちらを見ている。 「お父さん……仕事は?」 「休んだ。お前と話がある」 その声には、普段の温厚な響きがなかった。張り詰めた糸のような緊張感が、部屋の空気を重くしている。美咲は息を呑み、おずおずと部屋の中へ進んだ。 「話って……」 「座れ」 命令口調。美咲は言われるまま、向かいの椅子に腰を下ろした。和彦の目が、品定めするように彼女を見つめている。 「お前の体質についてだ。あの香りが、男性を魅了する特別なものだと気づいているな」 「……うん。でも、何でそれを」 「実はな、お前の母さんが同じ体質だったんだよ」 美咲は目を見開いた。亡き母の話は、これまでほとんど聞かされてこない。 「お母さんが?」 「ああ。彼女の香りは、国を動かすほどの力を持っていた。敵国にとっては脅威であり、同時に最強の武器でもあった」 和彦が立ち上がり、窓の方へ歩く。逆光で表情が読み取れない。 「俺の本当の名は、イワン・ペトロフ。北方連邦の諜報員だ」 「……えっ?」 「お前を育てたのは、国のためだった。あの香りを完成させ、再び戦線に投入するためにな」 美咲は言葉を失った。二十四年間の記憶が、音を立てて崩れていく。 「嘘……でしょ?」 「残念ながら、真実だ。お前の香りは母さん以上に強力だ。完成形と言っていい」 和彦が懐から携帯電話を取り出し、短く指示を出した。数分後、階下で車の停止音がする。 「悪いな、美咲。だが国のためなんだ」 ドアが開き、黒服の男たちが入ってくる。美咲は反射的に立ち上がった。 「逃げなきゃ」 だが、体が動かない。恐怖と混乱で足がすくんでしまったのだ。 「連れて行け」 男たちの手が、彼女の腕を掴む。抵抗しようとしたが、力が入らない。 「お父さん……いや、あなたは……!」 「さようならだ。新しい場所で、存分にその力を使わせてやる」 美咲は無理やり建物の外へと引きずり出された。止まったままの黒塗りの車、その後部座席へと押し込まれる。ドアが閉まる直前、美咲は窓から空を見上げた。図書館で見ていたのと同じ、濃紺の空だった。
恥辱の果てまで
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