「今日も残業お疲れ、美咲ちゃん」 上司に声をかけられ、美咲は曖昧な笑みを浮かべて会社の自動ドアを抜ける。十一月の冷気が頬を刺し、彼女はコートの襟を立てた。事務職のアルバイトとして働き始めて三年、二十二歳の日常は書類整理と茶汲み、そして社内の誰もが抱える不満を聞き流すことだけで構成されていた。 「あ、美咲さんお疲れ様です」 エレベーターホールで後輩の田中に会う。彼は爽やかな笑顔を向けてくるが、美咲にはその裏に渦巻く粘着質な視線が見えていた。いつも胸元をチェックしていること、休憩室で自分の悪口を話していること、そんな彼の内面を無意識に拾ってしまい、美咲は曖昧な返事でその場をやり過ごす。 最近、こういうことが増えていた。他人の感情や思考が、なぜか肌を通して染み込んでくるのだ。最初は気のせいだと思っていたけれど、回数を重ねるごとに確信へと変わっていく。 コンビニで晩御飯のおにぎりを買おうと道路を横断しようとした瞬間、鋭いヘッドライトの光が視界を焼いた。 「えっ……」 ブレーキ音が鼓膜を劈く。車のボンネットが脇腹を弾き、美咲の身体はアスファルトに放り出された。激痛が走るかと思いきや、不思議なほど痛みはなかった。ゆっくりと身を起こすと、運転席から中年男性が飛び出してくる。 「大丈夫ですか! 救急車を!」 彼が叫ぶ。その声に混じって、別の感覚が流れ込んできた。恐怖、焦燥、そして……なぜか高揚感。この男は事故を起こしたことによって生じるトラブルに興奮している。日常の退歩が破壊されるスリルを楽しんでいるのだ。 美咲は自分の体を見下ろす。打ち身ひとつなく、服も擦れていない。まるで最初から何も起きなかったかのように。 「本当に大丈夫なんですか? 病院へ行った方が」 「……うん、平気。本当に何ともないから」 立ち上がって歩き出そうとした時、別の視線を感じた。コンビニの入口に立つ若い店員が、じっとこちらを見ている。二十二歳くらいの痩せた男で、無表情な瞳がガラス越しに美咲を追っていた。 「あの子か……」 誰かの思考が耳元で囁いた気がした。美咲は背筋に冷たいものを感じつつ、逃げるようにコンビニへ駆け込む。店員は何事もなかったかじてレジに立ち、丁寧な声で挨拶してきた。 「いらっしゃいませ」 しかし美咲には聞こえていた。この男の内側で反復されている祈りのような独白が。 『見つけた。予言書の……救世主だ』
生贄女王
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