「今日も遅いのね」 美咲は広すぎるリビングのソファに座り、スマートフォンの画面に表示された夫からのメッセージを眺めた。『今夜は帰らない』という簡潔すぎる一文。結婚して三年、こうした連絡は数えきれないほど届いている。 「……慣れるわけないか」 彼女はため息をつき、窓の外に広がる夜景を見やった。高級マンションの最上階から見下ろす街の灯かりは美しいが、その輝きは彼女の心を温めることはない。総理大臣である父が選んだ見合い結婚。政財界に太いパイプを持つ夫の家柄と、父の政治的生命線。その二つが交差する場所に彼女は立たされていた。 「お嬢様、夕食をお持ちしましょうか」 家政婦の声に、美咲は首を横に振る。 「いいえ、いらない。一人にして」 重厚なドアが閉まる音を聞き届け、彼女は立ち上がった。何かが足りない。何かが欠けている。そんな感覚が常につきまとう。 寝室に入り、クローゼットの奥にある古びた桐箱を取り出した。先月、実家の蔵で見つけたものだ。代々、女系だけで受け継がれてきたという家宝。 「ローター……」 箱の中には、黒曜石で作られた奇妙な形の物体が鎮座していた。指先ほどの大きさで、どこか女性的な曲線を持つその石は、手に取ると不思議な温もりを放っている。 「ただの石でしょう」 そう口にした瞬間、指先から痺れるような感覚が走った。ビクリと肩を震わせ、慌てて箱の中に戻そうとするが、手は石を離さない。 「あっ……」 微かな電流のような刺激が、指先から手の甲、腕を伝って全身へと広がる。熱くなる肌。速まる鼓動。 美咲はベッドの端に腰を下ろした。石が掌の中で脈動しているように感じる。まるで何かが目覚めようとしているかのように。 「これ、一体……」 衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。自分の呼吸音が耳障りなほど響く。そして何より、下着が肌に触れる感触が、普段の何倍にも感じられることに気づいた。 「んっ……」 無意識に太ももを擦り合わせると、甘い痺れが腰の奥から湧き上がった。石を握りしめる指に力が入るたび、その感覚は強まる。 「だめ、こんな……」 理性が警鐘を鳴らす一方で、乾いた喉が潤いを求めている。愛のない結婚生活。触れられることのない肌。満たされない日々が、彼女の中に澱のように積もっていた。 美咲は震える手で石を胸元に押し当てた。冷たいはずの黒曜石が、体温を吸い取るように熱くなっていく。 「あぁっ……!」 背筋が反り、爪先が伸びる。秘めたる感覚が、堰を切ったように溢れ出した。 「お母様が、これを……」 代々受け継がれてきた秘宝の意味。それが何なのかはまだ知らない。だが、この石は彼女に問いかけているようだった。自分の中にある欲望と向き合え、と。 美咲は乱れた呼吸を整えながら、石を見つめた。黒い表面に映る自分の瞳が、普段よりも潤んでいることに気づく。 「明日、また……」 箱に石を戻し、蓋を閉じる。だがその温もりは、まだ掌の中に残っていた。
背徳の夜へ
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