深夜の製菓学校は、焼き上がったバターの匂いと、磨きすぎた作業台の冷たい光で満ちていた。俺はホイッパーを置き、指先の震えを隠すように白衣の袖を握った。今日はいつもより集中できていた。砂糖の粒の大きさ、クリームの温度、焼成の秒数。全部がきちんと噛み合っているはずだったのに、ふと息をついた瞬間、胸の奥から知らない気配が立ちのぼった。 甘い。けれど、ただ甘いだけじゃない。雨上がりの木陰みたいに、張りつめた空気をほどいていく匂いだった。 「……何だ、これ」 自分の袖口を嗅いでも、香水の類いはつけていない。体調の変化かと思って水を飲んだが、喉を通るたびに同じ気配は薄れず、むしろ静かに広がっていく。隣で作業していた同級生が顔を上げた。 「今、なんか落ち着く匂いしない?」 言われて、背筋が冷えた。気のせいだと言いかけたが、彼女は少し眠そうだった目をぱちりと開き、さっきまでの苛立ちを忘れたように肩の力を抜いた。すぐ近くでスマートフォンを鳴らしていた別の生徒まで、通話を切る前に深いため息をついて黙り込む。 俺のせいかもしれない。そんな考えが頭をよぎった瞬間、怖くなった。 その夜は課題の仕上げどころではなかった。帰り支度を終え、深夜営業のコンビニに寄ったのは、ただ安い飲み物を買うためだった。店内は静かで、蛍光灯の白さがやけにまぶしい。レジに立つ店員は、眠気の欠片も見せずにこちらを見た。 「お疲れさまです。久世さん」 名乗っていない。胸の奥が一拍だけ遅れた。細い声だったのに、妙に耳に残る。店員は黒い腕時計を確かめるように目を落とし、それから再び俺を見た。 「……やっぱり、今日は匂いが強い」 「は?」 「いえ。失礼しました」 失礼どころではない。初対面のはずなのに、彼はまるで昔から俺を知っているみたいな顔をしていた。整った顔立ちのわりに、どこか影が薄い。なのに視線だけは妙に真っ直ぐで、逃げ道を塞ぐみたいだった。 俺が財布を出すと、店員はレジ越しに小さく息を吸った。その瞬間、ほんの一瞬だけ彼の表情が硬くなる。何かを確かめるような、懐かしむような目だった。 「また来ますか」 「別に。普通に、必要なら」 「なら、次はもう少し時間のある時に」 何を言われたのか分からないまま受け取った袋を握りしめ、俺は店を出た。背後の自動ドアが閉まっても、あの店員の視線だけが背中に残る。 夜風は冷たいはずなのに、胸の奥だけは妙に熱かった。甘い匂いがまだ消えない。知らない誰かに、自分の名前より先に何かを知られている気がして、俺は足を止めた。
深夜香る再生の扉
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