儀式具を組み上げた直後、蔵の戸が震えた。外の空気がざわついている。夜の住宅街にまで、俺の香りが漏れ出したのだと、すぐに分かった。甘いはずの匂いが、今日はやけに鋭い。胸の奥が熱くなり、息をするたびに周囲の感情が波のように膨らんでいく。 「まずいな」 配送員が額を押さえ、書店員が目を瞬いた。誰かの不安が誰かの怒りを呼び、些細な苛立ちが連鎖している。遠くで犬が吠え、駅前の信号待ちの人々まで落ち着きを失っていく気配がした。俺は初めて、自分の変化が迷惑だと実感した。 「香りを止めろと言われても、どうすればいい」 そう吐き捨てた俺に、店員は首を振った。 「止めるのではありません。鍵の暴走に対して、防護が発動しているだけです」 「防護?」 「あなたの香りは危険ではない。壊れかけた境目が、勝手に身を守ろうとしている証拠です」 その言葉に、俺は耳を疑った。危ないのは俺ではなく、俺を通じて揺れている何かだというのか。店員は蔵の奥で見つけた古文書を開き、指先で一文をなぞる。そこには、拘束具が誰かを縛るものではなく、暴れ出す力を受け止める輪だと記されていた。 「久世さん。あなたは選ばれているのではありません。守る側へ押し出されているんです」 言い返そうとして、声が出なかった。俺はずっと、金を積めば世界は思い通りになると信じてきた。だが今、札束もコネも役に立たない。必要なのは支配ではなく、支えだった。 蔵の外から、遠慮がちな声がした。講師たちが、近所の大人たちが、様子を見に来ている。俺は戸口へ向かい、深呼吸した。香りはまだ揺れている。けれど、逃げたくはなかった。 「少し下がってくれ。今から、試す」 誰かの不安が跳ね上がるより先に、俺はキーワードを唱えた。店員が儀式具の輪を正しい順に重ねる。古い金具が低く鳴り、まるで眠っていた扉が目を覚ますようだった。すると、甘い匂いがふわりと広がり、周囲の空気をやわらかく包み込む。怒りはほどけ、恐れは輪郭を失い、ざわついていた街の気配が静かに沈んでいく。 その中心で、俺は理解した。俺の香りは力を奪うものじゃない。壊れそうなものを先に包み込む、反射みたいなものだ。 店員が息を吐いた。 「これで、世界はまだ持ちこたえます」 「持ちこたえるだけじゃ足りないだろ」 俺は儀式具に手を添え、初めて自分の意思で答えた。 「なら、壊れないように俺がやる。金じゃなく、逃げずに」 その瞬間、店員はほんの少しだけ目を見開いた。まるで、前世の恩を返すはずだった相手に、先に背中を押されたみたいな顔だった。
深夜香る再生の扉
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