夜の山は思ったより静かで、焚き火のはぜる音だけが、薄い霧の向こうへ細く伸びていた。健太は安いテントの前に折りたたみ椅子を置き、缶のスープを片手にひと息ついた。平日の終わりに一人で来るには少し寂しいが、誰にも気を遣わずに済むこの時間が、事務のアルバイトで擦り減った気持ちにはちょうどよかった。明日になればまた書類の山だ。そう思った瞬間、草を踏むかすかな音がした。 振り向くと、木立の影に男が倒れていた。黒いコートは泥にまみれ、呼吸は浅い。健太は迷うより先に体が動いた。救急の連絡を入れ、毛布をかけ、震える手を押さえながら水を口元へ運ぶ。知らない人を見捨てられるほど、器用な性格ではなかった。 男はしばらくして目を開けた。鋭い眼差しだけが妙に生々しく、助かった安堵より先に、空気がひりつく。あなたが、継ぐしかない。かすれた声でそう言われ、健太は耳を疑った。意味が分からない、と返すより早く、男は懐から小さな金属の印を取り出し、掌へ押しつけてきた。冷たく重い感触が皮膚に残る。 その瞬間だった。焚き火の明かりが揺れ、周囲の空気がざわめいた。人がいないはずの暗がりから、何組もの気配が立ち上がる。健太は息を呑んだ。見えない糸が張り巡らされるような圧迫感に、胸の奥がきしむ。昔から、感情の波を拾いすぎる自分の癖はあった。だが今夜のそれは比べものにならない。怒り、警戒、期待、飢えたような執着が、ひとつの渦になって押し寄せてくる。 「見つけたぞ」 闇の向こうで誰かが笑った。男は痛みに顔を歪めながら、健太の手を強く握る。 「もう戻れない。お前が、ここの頭だ」 たった一つの親切が、健太の平凡な夜を壊した。缶のスープはいつの間にかぬるくなり、焚き火の赤は、まるで別の世界への入り口みたいに揺れていた。
二つの心を束ねて
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