エラベノベル堂

二つの心を束ねて

全年齢

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5章 / 全10

健太の携帯が鳴ったのは、夜更けのコンビニの明かりの下だった。表の仕事を終え、組の者が手配した車へ向かう途中で、彼は買ったばかりの温いコーヒーを握ったまま立ち尽くした。表示されている名前を見た瞬間、喉が詰まる。妹の紗耶香だった。 「もしもし」 出た途端、向こうは息を飲んだ。次いで、知らない女の声が混じる。柔らかいのに、底が見えない声だった。健太くんですね、少しだけ話をしましょう。紗耶香さんは大丈夫。そう言われたはずなのに、通話の向こうで何かを確かめるような気配がした。健太は返事より先に走り出していた。 到着したのは、駅前の古いカラオケビルの裏口だった。薄暗い階段の途中で、紗耶香はぼんやりと壁にもたれていた。けれど、その目はいつもの彼女ではない。焦点が合わず、こちらを見ているようで見ていない。 「お兄ちゃん?」 声はたしかに紗耶香のものだ。だが次の瞬間、彼女は首を傾け、困ったように笑った。 「あなた、誰でしたっけ」 健太の背中に冷たい汗が流れた。たった数歩の距離なのに、世界が遠い。組の者が遅れて駆けつけ、周囲を探るが、すでに敵は影に溶けていたという。催眠を操る一派。人の記憶を曇らせ、判断の輪郭を削る連中だと、誰かが吐き捨てるように言った。 紗耶香を連れ帰る車内で、健太は何度も名前を呼んだ。返事はある。けれど、言葉の端々が噛み合わない。幼い頃の約束を持ち出しても、彼女は首を振るだけだった。家に着くころには、彼女は半分眠ったように黙り込み、健太の顔を見ても、どこか遠い場所を探すような目をしていた。 その夜、健太は一睡もできなかった。ソファに座ったまま朝を待ち、まぶたが落ちるたび、底のない井戸へ沈むような感覚に襲われる。やがて薄闇の中、誰かが部屋を歩く気配がした。紗耶香ではない。もっと静かで、もっと落ち着いた歩き方。 健太は目を開けた。そこにいたのは自分だった。だが表情が違う。疲れた顔の奥に、刃物みたいに冷たい集中が宿っている。 「ようやく気づいたか」 低い声が、口の中で勝手に鳴った。 健太は息を止めた。夢だと断じたいのに、指先の感覚も、畳の匂いも、あまりに鮮明だった。 「お前は、誰だ」 「お前だよ。眠っている間に、少しだけ前へ出る」 その言葉とともに、健太は思い出した。いや、思い出したというより、断片が胸の底から浮かび上がる。交渉の最中に、自分が覚えていない言葉で相手を黙らせたこと。会議のあと、妙に整理された帳簿。誰かに触れられた気配。全部、夢だと思っていた隙間に、もう一人がいたのだ。 表の自分は震えていた。大切な人を守れなかった無力さに、ただ泣きたかった。だが、隣に立つもう一人は淡々と言った。 「泣くのはあとだ。あいつらは、まだ紗耶香だけで終わらせる気じゃない」 窓の外が白み始める。健太は初めて、自分の中にある冷たい静けさをはっきりと感じた。恐怖と同じくらい、確かな怒りがそこにあった。眠るたびに現れる影は敵なのか、味方なのか。分からない。ただ、その存在だけが、今の自分を次へ押し出していた。

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