「ご主人様」 その呼びかけは、蜂蜜を滴らせるような甘美な響きを持っていた。リナは自らと同じ顔を見返しながら、言葉を失う。 「……ご主人様って何? 私はあなたの上司でも何でもないわ」 男――ドッペルゲンガーは、愉悦を滲ませて彼女の顎に指を添えた。 「前世での話だよ。君は僕を救ってくれた。覚えていないのかもしれないが、僕にとって君は全てだった」 リナには心当たりがなかった。彼女はただの看護師で、恋愛ゲームに逃避する日々を送っていただけだ。しかし、この世界での彼女の魂は、かつて誰かを救済した記憶を持っているのだろうか。 「君は僕に慈悲を与えた。だから今度は、僕が君を支配する番だ」 彼はリナの抵抗を封じるように、その手首を掴んでベッドへと押し倒した。柔らかい布団に沈む体、逃げようと足掻く力は、疲労で芯から抜けている。 「待って……これはおかしいわ。あなたは敵国の密使なのでしょう?」 「密使であることは偽りない。だが、僕の真の目的は君を手中に収めることだ」 ドッペルゲンガーは素早い動きで、彼女の腕を枕元の装飾に縛り付けた。リナは自由を奪われた両手を引くが、解ける気配はない。 「離して!」 「残念だが、その声は届かない。この部屋の壁は厚く、音を通さない」 彼は立ち上がり、部屋の鍵を懐に入れた。月明かりに照らされた彼の顔は、リナ自身の顔でありながら、飢えた獣のような光を宿している。 「君は僕が育てる。この世界で君が誰のものか、体の芯まで理解させるよ」 リナは恐怖と混乱の中で、逃げ場を探した。しかし窓には鉄柵が嵌め込まれ、ドアは分厚い鋼鉄で補強されている。ここはマフィアのボスが身を守るための要塞であり、同時に囚人を閉じ込める檻でもあった。 「なぜ……私なの?」 問いかけに、ドッペルゲンガーは振り返る。 「君という存在そのものが、僕にとっての救済だからだ。愛する者を支配する……これほど甘美な背徳があるだろうか?」 彼は部屋を出ていき、鍵を閉める重たい音が響いた。リナは暗闇の中に残され、自らと同じ顔をした男が去った扉を見つめる。 (これから私に何をするつもりなの……) 不安に震える体を抱きしめながら、リナは閉ざされた出口を見つめた。ドアノブに手を伸ばすが、鍵がかかっている。 「くっ……!」 彼女は床に座り込み、膝を抱えた。冷たい石造りの床が、肌から熱を奪っていく。だが、胸の奥で何かがざわめいた。恐怖だけではない、得体の知れない感覚。 (私……彼に惹かれている?) 同じ顔、同じ声。鏡の中の自分が、肉体を持って現れたような存在。その歪んだ愛情に、彼女は胸の奥で微かな熱を覚えた。それは否定すべき感情だが、彼女の理性を内側から侵食し始めていた。
瓜二つの悪夢へ
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