夕方の歩道を横切ったのは、やはり義理の姉の靴だった。私は思わず立ち上がりかけたが、店主は何も言わず、ただカップを磨く手を止めなかった。窓の外を見つめたまま、あの人は知っているはずのことを知っている顔をしている。そんな気配だけが、湯気と一緒に静かに立ちのぼっていた。 翌日、姉は何事もなかったように私の部屋へ来た。買い置きのゼリーと、妙に重たい沈黙を持って。ソファに腰を下ろすなり、彼女は眉をひそめた。 「最近、この町で変な噂が広がってるの。駅前の喫茶店、知ってるでしょう」 私は、胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。知らないふりは、もうできない気がした。 「マスターのところ?」 「そう。その人が、誰にも知られず何かを進めてるって」 姉の声は低く、冗談の温度ではなかった。誰かを助けているのか、誰かを縛っているのか、その輪郭さえ曖昧なまま、町だけがざわついているらしい。最近は、喫茶店の前を通ると妙に足が重くなるとか、入った客が少しだけ様子を変えて出てくるとか、そんな話まで出ているという。 「行かない方がいい」 と姉は言った。けれど、その言い方は止めるためというより、確かめるために近かった。 私は曖昧にうなずきながら、昨日の店主の目を思い出していた。遠くを見ているのに、こちらの呼吸だけを正確に拾うような、落ち着いた目だった。 その日の夕方、私は結局、駅前の喫茶店へ向かった。扉を押すと、鈴が小さく鳴った。店内は古い木の匂いと、豆を挽いたばかりの香りが混ざっている。客は少なく、窓際の席には新聞を広げた老人が一人いるだけだった。 「いらっしゃい」 奥から出てきたマスターは、昼の明るさよりも一段落ち着いた影をまとっていた。私を見るなり、驚いたふうもなくグラスを置く。 「来ると思っていたよ」 その一言で、背中の内側がじわりと冷えた。来ると思っていたのは、私なのか、それともこの時間なのか。答えはどちらでもよさそうな顔で、マスターはカウンター越しに視線を重ねた。 「ここは、落ち着ける場所として開けてある。けれど、ただの店だと思わない方がいい」 言葉は穏やかなのに、逃げ道だけを先に塞がれていく気がした。私は席に座り、何気ないふりで周囲を見回した。棚の奥、磨かれた砂糖壺、壁に掛かった古い時計。どれも普通なのに、どれも少しずつ私の視界に引っかかる。視線を戻すと、マスターが微かに笑った。 「君は、もう見えているだろう」 その声に、私ははじめて、自分が保護されているのか、それとも見張られているのか、判別できない場所に立っているのだと知った。
喫茶店と時止めの嘘
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