翌朝、私は喫茶店の裏口から入るよう指示された。表の看板はいつも通り静かなのに、裏手の階段だけが妙に清められている。狭い踊り場を上がると、二階は倉庫でも住居でもなく、古い鏡と布地と瓶が整然と並ぶ、小さな準備室になっていた。 「今日は見え方を整える」 マスターはそう言って、白い紙の束を机に置いた。中には、皮膚に触れると色が浮くという特殊な顔料と、黒を基調にしたドレスの型紙があった。私は思わず身を引いたが、彼は慣れた手つきで指先を洗いながら続ける。 「君の力は、むき出しだと流れが散る。包むものが必要なんだ。衣装は飾りじゃない。器だよ」 鏡の前に座らされ、頬から鎖骨へ、細い線を引かれていく。冷たいはずの筆先が、触れた瞬間だけ妙に温かい。黒と銀の模様が肌の上で絡み、呼吸をするたびに、胸の奥でざわついていた何かが、少しずつ輪郭を持ちはじめた。布を重ねるたび、身体の内側を走っていた細かなノイズが、一本の道へまとめられていく感覚がある。 「これで変装は終わり?」 私が聞くと、マスターは否定も肯定もせず、私の肩に指を置いた。 「違う。これは君自身を、君に戻すための準備だ」 黒いレースの袖口を整えながら、私は自分の手のひらを見つめた。以前はただ震えるだけだった指先が、今は見えない糸の張り方を少しだけ掴める。空気の淀みが、階段の下にたまる水みたいに感じられた。そこに誰かが立てば、流れは変わる。私にはもう、それがわかってしまう。 着替えを終えると、鏡の中の自分は知らない人のようだった。だが怖さより先に、奇妙な納得が来る。これは偶然の衣装ではない。誰かが長い時間をかけて、私をこの場所へ運ぶために用意していた鍵だ。 「どうして私なんですか」 そうこぼした声は、思ったより弱かった。 マスターは少しだけ目を伏せ、棚の奥に視線を逃がした。 「答えは急がない方がいい。知る順番を間違えると、壊れるものがある」 その言い方に、私は気づいてしまう。守られていると思っていた温度の下に、別の意図が隠れていることを。優しさは本物でも、真実は別の箱にしまわれている。私はこの喫茶店の客でも、弟のような存在でもなく、もっと中心に近い何かとして扱われているのだ。 窓の外では、夕方の街が静かに色を変えていた。私は黒いドレスの裾をつまみ、初めて自分が事件の外側にいないと認めた。むしろ、私の力そのものが、誰かの争いを呼び寄せる核になっている。そう思った瞬間、胸の奥で、見えない光が細く脈打った。
喫茶店と時止めの嘘
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