朝の校門をくぐった瞬間、違和感は最初からそこにあった。空気の温度ではない。匂いでもない。見慣れた学園の景色が、薄い膜一枚を隔てたように遠い。制服の袖を引く風はいつも通りなのに、脳の奥だけが置き去りにされたままだった。 怜は立ち止まり、無意識に指先で耳の後ろを探った。そこにあるはずの記憶の糸が、ぷつりと切れている。昨夜の終わりも、今朝の始まりも、滑らかにつながらない。昨晩は確かに、都市全域を走る情報網の保守用ログを眺めていたはずだ。学園の端末群と街の監視回線、掲示板、配送網、交通の遅延予測まで、怜の手にかかればひとつの地図だった。その自負だけは鮮明なのに、そこへ至る途中が抜け落ちている。 校舎へ向かう生徒たちは誰も彼も平然としていた。笑い声、靴音、朝の挨拶。だが怜の目には、会話の端々に細いひびが見える。黒板の反射が一瞬だけ濁り、渡り廊下の影が不自然に長い。誰も気づかない。気づいていないふりをしているのかもしれない。そう思った途端、背筋が冷えた。 「顔、悪いわね」 振り向くと、そこに彼女がいた。 黒いレースの襟元に、深紅のリボン。朝日に似合わない、葬列みたいな装い。校内でも浮いていることで有名な同級生、九条綾音だった。怜が最も嫌っている相手でもある。言葉も視線も、いつもこちらの神経を逆撫でする。今日もそうなるはずだった。 だが綾音の目に映った怜は、なぜか見知らぬものを見る顔ではなかった。 「思い出せないなら、探さない方がいい」 低く落とされた声は、からかいでも忠告でもなかった。もっと厄介な、確信の響きを持っていた。 怜は眉をひそめた。 「何を知ってる」 綾音は答えず、すれ違いざまに肩をかすめた。その瞬間、頭の奥で鈍い痛みが走る。古い映像の断片。夜の屋上。割れた月光。誰かの手。けれど輪郭は掴めない。息が詰まり、怜は思わず手すりに触れた。 「あなた、今日は一人で帰らないで」 綾音は足を止めないまま言った。 「たぶん、その方が後悔が少ないから」 怜が呼び止めるより早く、彼女は人波に紛れて消えた。残されたのは、制服の袖に残るかすかな冷気と、胸の底で騒ぐ空白だけだった。 校舎の方では、チャイムが鳴り始めていた。いつもなら、それで一日が始まる。けれど今日の怜には、何かが始まる音にしか聞こえなかった。
時軸を継ぐゴスロリ
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