翌朝、僕は研究所の実験室にいる気分で口を閉ざしたまま家を出た。歩く、止まる、息をする、それだけを考える。だが曲がり角で自転車のベルが鳴った瞬間、『危ない』『びっくりした』『心臓に悪い』が頭上ににじみ出て、通りすがりの女性にまで見られた。慌てて平静を装うほど、吹き出しは増える。『大丈夫です顔をしているのが一番まずい』『むしろ不審者みたいだ』。僕はその場で硬直した。感情が揺れるたび、文字は水面の波紋みたいに広がるらしい。ならば逆に、揺らさなければいい。そう結論づけた僕は、その日から沈黙の訓練を始めた。 授業中は指先だけでノートを取り、返事は最小限、目を合わせる時間も短くする。けれど沈黙は思ったより難しい。黒板の文字が少し崩れただけで『見えない』『焦るな』『焦ってる』『バレる』が膨らみ、前の席の生徒がくすりと笑った。昼休みには、隣の席の子が弁当を差し出してくれたが、『優しい』『助かる』『でも食べ方が変だと思われたらどうしよう』と漏れてしまい、親切な沈黙まで気まずさに変わった。 その帰り、家の近所のコンビニに寄ると、レジの店員がこちらを見て目を細めた。三十代半ばくらいの、やけに涼しい顔をした男だった。僕が商品を棚に置く前から、彼はぽつりと言った。 「無理に静かにすると、逆にうるさくなる体質ですね」 背中が冷えた。初対面のはずなのに、吹き出しのことを見抜かれている。 「……何の話ですか」 僕がしらを切ると、店員は辛そうな棚の前に手を伸ばし、赤い箱を一つ持ち上げた。 「これ、試したことは?」 そこには激辛カレーと大きく書かれていた。僕は思わず顔をしかめた。『そんなもの食べたら死ぬ』が、反射みたいに空中へ出る。 「死にはしません。たぶん」 たぶん、が怖い。店員は笑うでもなく、淡々と袋に入れた。レジを打つ指先は妙に正確で、釣り銭の音まで無駄がない。 「感情が揺れるほど現象は増幅する。なら、揺れ方を変えればいい。熱いものは、余計な思考を追い出します」 「あなた、誰なんです」 問い返した僕に、店員は一瞬だけ遠い目をした。 「前に、少しだけ借りがありまして」 それ以上は答えず、レシートを差し出す。その端に、走り書きのような文字が見えた。明日の夕方、また来い。僕が顔を上げると、店員はもういつもの接客の顔で、次の客に笑顔を向けていた。 店を出ると、袋の中のカレーがやけに重く感じた。僕は空を見上げた。何も考えるな、と言い聞かせたはずなのに、『あの店員は何者だ』『なぜ僕だけが狙われる』『辛いのは苦手だ』が、夕焼けの色に溶けていく。沈黙は、たしかに少しだけ効いた。だがそれは、嵐の前の静けさにも似ていた。
吹き出す本音とカレー
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