朝の教室で、僕はノートの端に指を置いたまま目を閉じた。隠そうとするほど漏れるなら、隠すのをやめればいい。そう思い直しただけで、頭上の吹き出しは少し落ち着いた。『怖い』『焦る』『でも整理したい』。まだ騒がしいが、文字は散らばらず、横並びになっている。僕はそれを、そのまま観察対象に変えた。 吹き出しを攻撃に使うのではなく、順番を付ける。まず恐怖、次に焦燥、最後に本当に欲しい答え。そう決めると、心の声は不思議なくらい素直に並び替わった。廊下から聞こえる足音、窓の外の風、机のきしみ。ひとつひとつに反応しながらも、吹き出しは前より静かに整列している。僕はそれを、心の中の付箋だと思うことにした。 放課後、近所のコンビニへ向かった。店員はいつも通り、何も知らない顔でレジに立っていた。だが僕が入店した瞬間、彼の吹き出しがわずかに揺れる。『来た』『まだ間に合う』『見抜けるか』。僕は息をのんだ。見抜ける、という一語だけが妙に重い。 「激辛カレー、また買いますか」 「……ええ」 僕が答える前に、店員は棚の奥へ視線を流した。そこに貼られた値札の数字が、妙に不自然だった。七、二、九。前に食べたカレーの裏面にも、同じ並びの印字があったことを思い出す。賞味期限でも製造番号でもない。わざと混ぜ込まれた符号だ。 「七は入口、二は迷い、九は封印です」 彼はさらりと言った。客に向ける声ではない。僕だけに落ちる、合図のような声だった。『鍵は渡した』『あとは読むだけ』。その吹き出しが、まるで答えを急かしている。 僕はレジ横の保湿ローションを見た。あまりに場違いなその白い容器には、小さく十と書かれている。十。合わせると二十九。胸の奥で、記憶の破片がひとつ鳴った。前の世界で閉じた扉の数。儀式の輪。感情をため込む者たちが並ぶ順番。全部が、数字でつながり始める。 「店長、これ、全部わざとですか」 「わざとではありません。あなたが思い出すように置いたんです」 店員の言葉は冷たいのに、どこか優しかった。僕の吹き出しが震える。『つまり試されている』『僕はまだ道具か』『違う、違うはずだ』。その最後の否定に、店員はほんの少しだけ笑った。 「鍵は扉のためだけにあるんじゃない。誰が閉めるかを決めるためにもある」 僕は袋の中の激辛カレーと、棚の上のローションと、レジ横の数字を見比べた。点が線になる。学校の静かな同級生たちは、感情を圧縮した陣形そのものだった。七で集め、二で揺らし、九で封じる。彼らが目指しているのは、僕の周りの人間関係を壊すことじゃない。もっと大きい、世界そのものの継ぎ目を開くことだ。 気づいた途端、頭上の吹き出しがはっきりと形を変えた。『見えた』『行ける』『止められる』。僕は初めて、自分の心の声に背中を押された気がした。店員がレシートの端を差し出す。そこには、学校の体育館の配置図に似た線が描かれていた。中心にあるのは、僕の席でも、彼女の机でもない。放課後の使われていない音楽室だ。 「次は、そこです」 僕は頷いた。怖さは消えていない。けれど、吹き出しはもう僕を暴露するだけの敵ではない。必要なものを並べ、隠された符号を拾い、進むべき場所を示す案内板になっていた。激辛の熱と、ひどく穏やかな保湿の匂い。その奇妙な組み合わせが、世界を閉じるための地図だった。僕は袋を握り直し、今度こそ視線を逸らさずに、次の一歩を選んだ。
吹き出す本音とカレー
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