エラベノベル堂

猿面の天下取り

全年齢

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1章 / 全10

猿だ、と囁かれるたび、秀吉は笑ってみせた。笑うのが早いほど、相手は安心する。安心した相手は口を滑らせる。秀吉はその一瞬を逃さず、顔色、指先、視線の揺れまで拾い上げて、自分の中にしまい込んだ。 尾張の城下で雑用を転々としていたころから、彼は人の機嫌を読むのが得意だった。誰が褒められたいのか、誰が先に立てば満足するのか、誰が酒に弱く、誰が怒鳴る前に沈黙するのか。そうした細かな癖を覚えるたびに、秀吉の居場所は少しだけ広がった。広がった居場所の端には、いつも軽い嘲笑がついていたが、彼はそれすら足場に変えた。 織田信長の前に出るようになってからは、その癖が一層役に立った。信長は人を試す眼が鋭く、気に入らぬ者には容赦がない。そのかわり、使えると見れば身分も噂も気にしない。初めて対面したとき、秀吉は膝をつきながらも、広間の空気がわずかに張り詰めるのを感じた。信長は彼の顔をじろりと見て、口元だけで笑った。 「面白い顔をしている」 その一言に、周囲の武将たちは忍び笑いを漏らした。だが秀吉は頭を下げたまま、床に落ちる影の形まで見ていた。信長の声には軽さがあったが、目は違う。軽く見せて、深く測っている。秀吉はそう悟って、さらに丁寧に答えた。 「お褒めにあずかり、恐れ入ります。顔は変えられませぬが、役に立つ手ならございます」 その返しに、信長は初めて大きく笑った。以来、秀吉は異形の身でありながら、帳面の扱い、使者の見極め、兵の気の回し方で頭角を現した。朝の挨拶ひとつ、城の騒ぎひとつからでも、誰が何を隠しているか見抜いてしまう。信長はそういう男を好んだ。危うさを抱えた才を、試すように、しかし決して手放さぬように傍へ置いた。 「猿よ、お前は人より先に人を見ておるな」 ある夕暮れ、信長は庭先でそう言った。沈む陽が石畳を赤く染め、風が草を撫でていく。秀吉は笑ってごまかそうとしたが、信長の視線は逃がしてくれない。 「お前のような者は、どこへ行っても嫌われる。だが、嫌われるからこそ見えるものがある。忘れるな」 秀吉はその言葉を胸にしまった。侮られることは慣れていた。だが、見抜かれていると思うと、背筋の奥に冷たいものが走る。自分は役に立つ。信長はそう認めた。けれど、いつかこの異形が刃になるのではないかと、主君もまたどこかで疑っている。その薄い不安を、秀吉は肌で感じていた。 城の廊下を渡るたび、彼は思う。人は顔で笑い、心で測る。ならば自分は、誰より多く笑い、誰より深く測るしかない。信長のそばで生き残るために。

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