エラベノベル堂

猿面の天下取り

全年齢

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2章 / 全10

京へ向かう街道は、いつもより人の足が速かった。荷を背負う商人は互いの顔を見ず、寺へ急ぐ僧は袈裟の端を押さえ、宿場の女中たちは井戸端で声を潜める。秀吉はその流れを眺めながら、何かが綱を伝って広がっているのを感じていた。火種は見えぬのに、空気だけが乾いている。 「京のほうで、妙な噂が立っております」 供の者がそう言うと、秀吉は肩をすくめて笑った。 「妙な噂なら、京は毎日が祭りみたいなものだ」 軽口を返しながらも、耳は別の音を拾っていた。宿の主人が隠す息。門番が一瞬だけ逸らした目。市で売られる米の値が、先月より静かに上がっていること。戦の前触れは、たいてい軍勢より先に、生活のほころびとして現れる。秀吉はそれを何度も見てきた。 本能寺へ近づくにつれ、彼は異様な薄さに気づいた。要所に立つはずの兵が少ない。人の出入りを制するはずの気配も弱い。まるで大きな屋敷の戸が、たまたま開け放たれているかのようだった。秀吉は立ち止まり、空を仰いだ。雲は薄く流れ、鳥の声も遠い。 「ここは、静かすぎるな」 誰にともなく漏らした言葉に、同行の者が首をかしげた。だが秀吉の胸の内では、別の歯車が音を立て始めていた。もしや、誰かがこの静けさを作っているのではないか。ならば、ここで大声を出すのは愚かだ。まずは見なければならない。匂いを嗅ぎ、門を数え、人の流れを覚え、逃げ道を確かめる。 表向き、彼はいつもの秀吉でいた。愛嬌をまき、冗談を飛ばし、誰にも不安を悟らせない。笑えば相手は油断する。油断した隙に、こちらはすべてを記憶できる。普段なら軽んじられるその顔が、この日はかえって役に立った。誰も彼を、全体を動かす危機の察知者だとは思わない。だからこそ、彼は最初に動ける。 夕暮れ、寺の軒先で秀吉は手を止めた。風に混じるのは香の匂いだけではない。誰かが急いで焚きつけたような、焦げた気配が遠くにあった。秀吉は笑みを消さず、袖の中で指を折った。人を呼ぶ順番、逃がす順番、知らせる相手。頭の中で道はすでに分かれている。 「さて、面白くなってきた」 そう呟いた声は軽かったが、瞳だけは冴えていた。猿と呼ばれた男は、笑いながら戦の入口へ足を踏み入れる。まだ誰も、その軽さが備えであることを知らない。

2章 / 全10

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