翌朝、紗英は身支度を整えていた。スーツケースに荷物を詰めながら、何度も怜の方を振り返る。 「本当に……行かなきゃダメ?」 彼女の瞳は潤んでいた。怜は頷いた。 「あなたは、もう一人で歩ける。僕がそばにいたら、あなたはまた誰かに頼ってしまう。それは、あなたのためじゃない」 紗英は唇を噛み締め、スーツケースの取手を握りしめた。 「……わかった。でも、一つだけ約束して」 彼女が怜の目を真っ直ぐに見つめる。 「私を、描いて。舞台でも、ここでもなくていい。いつか、本当の私を」 怜は彼女に近づき、その頬に触れた。 「約束します。本当のあなたを描く。いつか、必ず」 ドアの前で、紗英は振り返った。 「さようなら、怜君」 その声は震えていたが、瞳には強さがあった。怜は彼女を見送った。スーツケースを引きながら歩く背中は、もう迷っていなかった。マンションに戻った紗英を、黒木が待っていた。 「おかえりなさいませ。舞台、大成功でしたね」 黒木は嬉しそうに言った。 「実家も大変喜んでおられます。次の舞台の話も——」 「黒木さん」 紗英は彼の言葉を遮った。 「私、実家の支援を受けません」 「……何と?」 「今まで管理されてきたけれど、もう終わり。私、自分の足で立つと決めたの」 黒木の顔が青ざめた。 「紗英様、何を仰って——」 「実家にはそう伝えて。私、もう人形じゃない」 紗英は黒木の前を通り過ぎ、自分の部屋へ向かった。孤独だった。誰もいない部屋。でも、不思議と寂しくなかった。彼女は窓辺に立ち、空を見上げた。怜との日々が蘇る。彼の優しい視線。何も求めない抱擁。そして、最後の言葉。 「本当のあなたを描く」 紗英は微笑んだ。彼女は鏡を見た。すっぴんの自分。化粧も、仮面もない。 「私、強くなれた」 彼女は歌い始めた。昔、歌いたくても歌えなかった歌を。それは誰かの役の歌じゃない。自分自身の歌だった。一週間後、紗英は新しい舞台の主役に抜擢された。黒木は彼女の元を去り、実家からの干渉もなくなった。彼女は一人で立ち、一人で演じる。でも孤独じゃなかった。客席のどこかに、彼がいるかもしれない。その想いだけで、彼女の演技は輝いた。舞台の幕が上がる。紗英は深く息を吸い、一歩踏み出した。自分の足で。誰の支えもなく。そして、観客の視線の中に、見覚えのある姿を見つけた。最前列、隅の席。怜がいた。彼は何も言わず、ただ彼女を見つめていた。その視線は、何も求めない。ただ、彼女の存在そのものを受け入れている。紗英は微笑んだ。彼女は演じる。役じゃない、自分自身を。そして、幕が下りた後、楽屋を訪れた怜に、彼女は言った。 「見てくれた?」 「ええ、素晴らしかった」 「……次は、いつ会える?」 怜は首を振った。 「あなたが望む時で。でも、もう僕を頼らないで」 紗英は笑った。 「うん。私、もう大丈夫。でも、約束は覚えてるよね?」 「本当の君を描く。いつか」 「その時は、どこで?」 「あなたが決めてください」 紗英は彼の手を取った。それは、恋人としての手つきじゃない。対等な、パートナーとしての手つきだった。 「じゃあ、次の舞台が終わったら。私を描きたい場所へ連れて行って」 怜は頷いた。 「約束します」 二人は別れた。でも、それは永遠の別れじゃなかった。紗英は、自分の足で立ち、自分の道を歩み始めた。そして、いつか彼が約束を果たしに来る。その日を、彼女は待ちわびる。孤独の中で、でも決して一人じゃなくて。彼女は舞台の幕を開けるたび、客席の彼を探す。彼女の真実の物語は、まだ続いていく。
検閲済みプロット
主人公の怜(芸術大学生)は、劇団の看板女優・紗英と、事情により一時期同居することになる。紗英は表向きは完璧な女優だが、プライベートでは自信を失いかけており、自分の本音が分からない状態だった。監視役の黒木が紗英の家族から派遣されており、彼女の自由よりも家の体裁を優先して行動する。怜の感受性が高い観察眼により、紗英の外面と内面のギャップが露わになり、二人は惹かれ合い、濃厚な男女の関係を持つに至る。黒木の介入により事態が悪化するが、怜の芯の強さが黒木の意図を挫き、周囲の評価を覆す。期間満了と共に怜は紗英の前から去るが、それは喪失ではなく、彼女が自立するための予想外の贈り物であった。


















