東京の朝は、いつも人の流れが先に行き、俺の呼吸だけが少し遅れていた。地方から出てきて五年になるが、駅の改札を抜けるたびに、自分だけが街の速度に置いていかれる気がする。商社の子会社で、資料を直し、数字を合わせ、会議の空気を読む。嫌いではない。けれど、誰にも強く求められないまま、ただ器用に薄まっていくような毎日だった。 昼休み、同期でもある友人の蓮が、缶コーヒーを片手に俺の机へ身を乗り出した。 「なあ、変な話があるんだけど」 いつもの軽口に聞こえたが、目だけは妙に真剣だった。今週末、都心の外れで、閉じた会員制の集まりがあるという。そこへ入るには、企業同士のつながりを装う同行者が必要らしい。 「お前、そういうの一番無難だろ」 褒めているのか分からない言い方だった。断ろうとした瞬間、蓮はスマホを見せた。画面に映っていたのは、若い女性の顔だった。凛とした目元、整った笑み、年齢のわりに場慣れした雰囲気。しかも肩書きは、会社を率いる新人社長。俺の取引先でも、最近やたら名を聞く人物だった。 「朝倉凛。見た目は華やかだけど、周りを頼るのが下手でさ。表では強い女をやり切るタイプ」 その夜、指定されたホテルのラウンジで、俺は彼女に会った。黒いコートを肩に掛けた朝倉は、想像よりずっと若く見えた。けれど立っているだけで、周囲の視線が自然と集まる。挨拶の前に彼女は俺を一瞥し、低い声で言った。 「あなたが、今日の同行者ですか」 「ええ。名目だけは、ですが」 朝倉は一瞬だけ目を細め、それから完璧な社交用の笑みを作った。 「十分です。今夜は、私があなたを連れてきたことにしましょう」 言葉は冷静なのに、指先だけがわずかに強張っていた。強く見られようとしているのだと、すぐに分かった。俺はそれ以上踏み込まず、差し出された帳票の束を受け取る。仕事で培った地味な確認作業なら、役に立てるかもしれない。 蓮の言う通り、これは妙な仕事だった。だが、会場の名を聞いた瞬間から、胸の奥がざわついていた。地方の小さな工場で育った俺にとって、こういう閉じた世界はいつだって、見えない継ぎ目を隠したまま回っているように思える。朝倉凛もまた、その継ぎ目の上に立たされているのかもしれない。 「行きましょう」 彼女が先に歩き出す。俺は半歩遅れて、その背中を追った。臨時の関係を装うには、あまりにも危うく、あまりにも静かな始まりだった。
契約の夜に
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