エラベノベル堂

契約の夜に

全年齢

小説ID: cmobmldkb04mw01ll8oyjiny8

2章 / 全10

朝倉凛は、会話の切れ目でだけ人間らしい疲れを見せた。ホテルを出たあと、次の打ち合わせまで時間があると言って、彼女は自分の車ではなくタクシーに乗った。運転手に行き先を告げる声は落ち着いていたが、膝の上で組んだ指はわずかにほどけない。俺が隣に座ると、彼女は窓の外を見たまま、短く息を吐いた。 「こういう時間、苦手なんです」 「移動ですか」 「一人でいる時間です。何もかも自分で決めた方が、楽だと思っていたので」 その言い方は強がりではなく、事実を並べただけに聞こえた。会社を率いる人間がそんなことを言うのかと意外に思ったが、同時に納得もした。彼女は仕事では迷いなく進むのに、私生活の足元だけが少し危うい。 目的地は、古いビルの上階にある控室だった。朝倉はドアを開ける直前、胸元のピンを確かめ、髪を手早く整えた。完璧に見せるための手つきに、必要以上の慎重さがある。俺はその横で、名刺入れと参加者名簿の写しを確認した。表向きは親しい取引先同士、という設定だ。蓮の冗談めいた情報が、思った以上に役に立つ場面だった。 「あなた、こういうの慣れてます?」 「仕事でなら。表向きだけ整えるのは得意です」 「頼もしいですね」 そう言って彼女は笑ったが、その笑みはすぐに消えた。控室の隣から、誰かが大きな声で話す気配がする。朝倉は一瞬だけ肩をこわばらせ、それを見られないように背筋を伸ばした。俺はそこで、彼女が強さを演じるのではなく、崩れないように支えを探しているのだと気づく。 「必要なら、私が先に話します。あなたは合わせてください」 「逆でもいいですよ。俺は黙っていても怪しまれにくい」 「それ、少し失礼ですね」 「褒めてます」 彼女はようやく本当に口元を緩めた。その一瞬だけで、張り詰めていた空気が少しほどける。俺たちはまだ互いを知らない。けれど、知らないまま役目を引き受けるには、十分すぎるほど同じ不安を抱えていた。朝倉凛は、仕事では誰より毅然としているのに、守られることに慣れていない。だからこそ、今夜だけは俺が隣に立つ必要がある。 ドアの向こうで、受付開始を告げる鐘の音が鳴った。朝倉は俺の腕に軽く手を添え、社交用の笑みを浮かべる。 「行きましょう。あなたが私の同行者です」 その声はもう揺れていなかった。俺は頷き、臨時の関係を演じるための呼吸を合わせた。

2章 / 全10

TOPへ