エラベノベル堂

契約の夜に

全年齢

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3章 / 全10

会場の中は、音が低く厚く、笑い声まで磨かれたガラスみたいに冷たかった。朝倉凛は俺の腕を取ったまま、視線だけで周囲を測る。控え室で練習した通り、少しだけ肩を寄せ、親しげに見える距離を保つ。俺は彼女の歩幅に合わせ、言葉を先に出しすぎないよう意識した。 「緊張してます?」 彼女が小さく尋ねる。 「少し。でも、あなたほどではないです」 「それは、褒め言葉ですか」 「たぶん」 曖昧に答えると、朝倉はほんのわずかに笑った。あの笑みは、ここへ来てから初めて見せた自然な顔だった。俺はそれだけで、胸の奥の硬いものが少し解けるのを感じる。 挨拶に来る人間は、皆どこかでこちらの値踏みをしていた。朝倉は完璧な受け答えを返すが、相手の視線が刺さるたびに、ほんの一拍だけ遅れる。そのわずかな遅れを埋めるように、俺は名刺を差し出し、話題を仕事へ寄せた。地方の小さな営業所で叩き込まれた、ありふれた雑務の感覚が、こういう場では妙に役立つ。 「こちら、製造管理の改善を担当していて」 「それなら、あの工程表の見方が」 専門的な話を振られると、朝倉はすぐに乗った。俺が横で補足すると、相手は勝手に納得する。俺たちの組み合わせは、不思議なくらい噛み合った。華やかさを求められる場で、俺の素朴さが余計な警戒を和らげ、彼女の鋭さが会話を前へ押す。 休憩室に移ったとき、朝倉はようやく俺の袖を離した。 「あなた、思ったより自然ですね」 「不自然になる方が難しいですから」 「普通の人みたいに見える」 「普通です」 「それが、いちばん助かります」 彼女はそう言ってから、少し目を伏せた。強くあろうとする人ほど、誰かの前で力を抜くのが下手だ。俺は水の入ったグラスを差し出し、必要以上に踏み込まないまま隣に立った。すると朝倉は、胸元のピンを外しもせずに、ふっと息をこぼした。 「背中、預けてもいいですか」 「どうぞ」 その一言で、彼女の姿勢がほんの少しだけ変わる。完全に頼ったわけではない。けれど、ここでは一人で立ち続けなくていいと、ようやく認めたようだった。 その後、廊下の奥でスタッフ同士が押し殺した声で言い争うのが聞こえた。受付名簿の差し替え、説明の食い違い、予定にない来客。小さな綻びが、ひとつずつ増えていく。朝倉も耳を澄ませ、眉をかすかに寄せた。 「少し変ですね」 「ええ。準備が雑というより、隠すつもりがあるように見えます」 俺が答えると、朝倉は短く頷いた。彼女の視線が、初めて俺へ信頼の形で落ちる。俺はその重みを受け止めながら、ここがただの会員制の集まりではないと確信していた。華やかな照明の下で、何かが静かに歪んでいる。けれど今はまだ、崩れきる前の音しか聞こえない。朝倉凛は俺の横で、次の挨拶へ向けてもう一度笑みを作った。その横顔は、さっきより少しだけ頼もしかった。

3章 / 全10

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