エラベノベル堂

舞姫、盤上を制す

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1章 / 全10

将棋部の部室は静かだった。窓から差し込む西日が、無造作に置かれた駒を琥珀色に染めている。真人は一人、盤面を眺めていた。相手はいない。ただ、頭の中で駒を動かしているだけだ。 「ここ、将棋部で合ってる?」 入り口から女の声がした。振り向くと、そこに立っていたのは場違いなほど美しい女性だった。黒髪は腰まで流れ、肌は陶器のように白い。清楚なワンピースからは気品が漂い、大学内では決して見かけないタイプの人間だと一目でわかった。 「ああ。部員は今、俺しかいないけど」 「それなら好都合ね」 彼女は断りもなく部屋に入ってきて、真人の向かいの椅子に座った。 「自己紹介が遅れたわ。私は藤代華凛。伝統舞踊の家の娘だと言えば、わかるかしら?」 藤代——京都でも名の知れた舞踊家の家元。真人は新聞の記事を思い出した。 「聞いたことはある」 「なら話が早いわ」 華凛はまっすぐに真人を見つめた。その瞳には、隠しきれない焦燥と、それを必死に抑え込もうとする強い意志があった。 「あなたに頼みたいことがあるの。偽の恋人を演じてほしいのよ」 真人は指に挟んでいた駒を盤に戻した。 「偽の?」 「家が決めた婚約者がいるの。会ったこともない、ただ家の利益のためだけの男。断りたいけれど、家の事情で簡単にはいかない。だから、私にはすでに好きな人がいるということにしたいの」 「なぜ俺なんだ?」 華凛は少し表情を固くした。 「あなた、将棋部で読みの深さが評判よ。盤上の心理戦が得意なんでしょう? この駆け引きには適任だと思ったの」 真人は腕を組んだ。彼女の必死さは伝わってくる。しかし同時に、その立ち居振る舞いからは育ちの良さと、培われてきた誇り高さが滲み出ていた。 「ただの偽装か。面倒そうだ」 「報酬は払う。条件も聞くわ」 「金はいらない」 真人は彼女の目をじっと見た。その奥にあるもの——家への重圧、逃げ場のない状況、それでも足掻こうとする強さ。盤上で相手の駒を読むように、真人は彼女の内面を探っていた。 「ただし、一つ条件がある。俺の指示には絶対に従うこと。お前のその誇り、時には捨ててもらうこともあるぞ」 華凛の表情がわずかに揺れた。 「……わかったわ。約束する」 真人は薄く笑った。 「いい返事だ。で、いつから始める?」 「できれば、今すぐに」 「なら、まずはその嫌な婚約者について詳しく聞かせろ。相手の駒の動きを知らなきゃ、勝てないからな」 華凛は深く息を吐いて、口を開いた。その瞬間、真人は直感した。これは単なる偽装恋愛ではない。盤上にない、本当の勝負になると。

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