杏花は、店にいる間だけは完璧だった。 碧斗が再び会ったときも、その印象は少しも崩れていない。閉店前の店内で、彼女は客に向けて柔らかな声を保ち、注文の取り方も所作も、隙のないまま流れるように整っていた。だが、碧斗がレジ脇で回収したメモの束に目を落とした瞬間、杏花の声がほんの少しだけ素に近づいた。 「それ、あとで見せて。たぶん、書き方に癖がある」 客の前では笑顔のまま、碧斗の耳元にだけ落とされた言葉だった。碧斗は軽くうなずく。杏花はすぐに距離を戻し、甘い声で別の客へ視線を移した。けれど、その切り替えの速さの奥に、彼女がどれだけ気を張っているかが見えてしまう。 閉店後、二人は店の奥の狭い休憩スペースで紙を広げた。照明は落ち、テーブルの上だけが白く浮いている。杏花はメモの端を指で押さえながら、碧斗の見落としを細かく拾った。 「ここ、言い回しが変。わざと曖昧にしてる人の文章だね」 「つまり、読み手に責任を押しつける形か」 「そう。客の顔を見てると、そういうの分かる。笑ってても、目だけ逃げてる人っているから」 碧斗は少しだけ目を瞬いた。仕事の顔を読む彼女の勘は、思っていた以上に鋭い。 一方で、杏花もまた、碧斗の資料の並べ方を見ていた。 「碧斗って、ほんと変。人と話すの、苦手でしょ」 「否定はしない」 「怒ってるみたいに見えるのに、実は無理してない。無理してないのに、近づけない」 その言葉に、碧斗は答えを探したが、すぐには見つからなかった。会社では、距離を詰めることも頼ることも、どこかで負けを認めるようで避けてきた。けれど杏花の前では、その不器用さまで見抜かれてしまう。 「誰かに頼るのが、下手なんだろうな」 自分で口にしてみると、妙にしっくりきた。 杏花は少しだけ目を伏せる。 「私も。平気なふりは得意だけど、甘えるのは苦手」 その一言は、店員の笑顔を外したあとにだけ落ちる、静かな本音だった。碧斗はペンを置き、書類の束を整えた。二人とも、助けを求めるタイミングを知っていながら、先に我慢してしまう。弱さを見せることが、相手に重くのしかかる気がしてしまうのだ。 夜は更け、窓の外の通りも人影が減った。杏花が温かい缶を二つ持って戻ってくる。 「はい。今日はこれで頭を冷やして」 「冷やすのか温めるのか、どっちだ」 「両方。考えすぎる人には、だいたいそのくらいがちょうどいい」 碧斗は短く笑った。杏花もつられて笑うが、すぐにその笑みが薄くなる。互いに支えになれそうで、まだ支え切れない。そのもどかしさだけが、テーブルの上に静かに残った。 紙の束は少しずつ整い、二人の沈黙も少しずつ馴染んでいく。甘えたいのに甘えられない。その距離を、今夜は無理に埋めないまま、碧斗と杏花は同じ光の下で情報を並べ続けた。
夜を抜ける契約
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