翌日、碧斗はいつもより早く会社に着いた。昨夜の疲れを表に出さないまま席に座ると、未整理の契約書がすでに机の上に置かれている。新規案件の詰めを確認しろという、無言の圧だった。 午前の打ち合わせで、翔馬は最初から余裕を崩さなかった。整ったスーツ、柔らかな笑み、名門出身らしい肩の力の抜けた物腰。だがその口調には、相手を品定めする冷たさが混じっていた。 「碧斗くん、この契約、通したのかい。条項が甘いよ。こんな穴だらけじゃ、あとで責任を問われる」 言葉は丁寧でも、狙いは明白だった。周囲の視線がいっせいに碧斗へ寄る。失敗を晒して立場を落とし、案件から外すつもりなのだろう。 碧斗は慌てなかった。問題の紙面を引き寄せ、指先でページをめくる。穴があると言われた条項は、単独で読めば確かに不親切だった。だが、前後の文言を合わせると意味が変わる。 「穴があるのは、こちらではなく、そちらの見落としです」 静かな声に、室内の空気がわずかに止まった。碧斗は条項同士の矛盾を順に示した。期限の定義、責任の移行点、確認手順の記述。片方を生かせば片方が死ぬ書き方になっている。つまり、詰め切れていないのは契約を作った側だ。 翔馬の笑みが薄くなる。 「言い換えで逃げる気か」 「逃げではありません。記述の整合性です」 碧斗はページを机に戻し、最後に一行だけ指で示した。そこには、相手側が確認したはずの項目が抜けていた。形式だけ整え、責任の流れを曖昧にした痕跡だった。 課長が黙り込む。誰かが小さく息をのむ音がした。碧斗は感情を乗せず、ただ事実だけを並べた。すると、さっきまで不利だと決めつけていた空気が、少しずつほどけていく。 翔馬は口元を保ったまま、視線だけで圧をかけてくる。だが、そこにあったはずの優位はもうない。碧斗は彼を睨み返さない。ただ、資料を閉じ、次に必要な修正箇所を淡々と読み上げた。 会議が終わるころには、周囲の見方がほんの少し変わっていた。派手さはないが、碧斗はただ黙って耐えるだけの人間ではない。契約の裏まで見て、崩れかけた筋道を立て直す目を持っている。翔馬の顔から余裕が消えたのを見て、碧斗は胸の奥で小さく息を吐いた。まだ勝ったわけではない。それでも、初めて確かに、相手の土台にひびを入れた感覚だけは残っていた。
夜を抜ける契約
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