エラベノベル堂

夜を抜ける契約

全年齢

小説ID: cmoleazcj000a01oce67ks539

7章 / 全10

その朝、会社の空気は妙に乾いていた。碧斗が席に着いた瞬間から、共有フォルダの通知が立て続けに飛び、会議室の予定表には見慣れない差し替えが増えていた。誰かが静かに段取りをいじっている。そう悟ったころには、もう翔馬が動いていた。 「案件、いったん白紙に戻すべきだと思うんだ」 昼前の打ち合わせで、翔馬はあくまで穏やかな声を保ったまま言った。だが、その言葉の端々には、碧斗を作業ごと削り落とそうとする圧がある。名門出身の余裕を装いながら、会議の場を自分のものにする慣れた手つきだった。周囲は一度、碧斗と翔馬を見比べる。白紙に戻せば、これまでの積み上げは消える。だが翔馬の顔には、失敗を認める痛みがない。ただ、碧斗が外れるならそれでいいという冷たさだけがあった。 碧斗は反論しなかった。むしろ、翔馬の提案を受けるふりをして、先に資料の整合性を確認した。杏花から受け取った観察の癖と、昨夜までに集めた断片をつなぐと、抜け穴の位置が見えてくる。問題は偶然ではない。条項の抜け方そのものが、最初から責任を曖昧にするために置かれていた。 碧斗は昼休みの短い時間を使い、紙の版と修正版の差分を並べた。数字の変更、文言の入れ替え、確認欄の削除。どれも単独では小さい。だが、並べると同じ方向を向いている。誰かが意図して、抜け道が一つに見えるよう仕組んでいた。 午後の席上で、碧斗はその差分を静かに示した。 「抜け穴ではありません。抜け穴に見せた設計です」 室内の視線が一斉に集まる。碧斗は感情を混ぜず、版管理の履歴、送信時刻、承認の抜けを順に読み上げた。途中で誰が確認を飛ばしたのか、どの段階で書き換えられたのか。ひとつひとつは小さな綻びでも、つなげれば意図は明らかだった。 翔馬の笑みが、そこで初めて崩れた。 「そんなもの、偶然だろ」 「偶然なら、同じ方向へ三度も揃いません」 碧斗は翔馬を見なかった。見なくても分かった。名門の看板に隠れた自尊心は、こういう場で傷を負うことに慣れていない。だからこそ、痛みの向きを外へ向ける。だが今回は、逃げ場がない。 碧斗が最後に示したのは、承認フローの片隅に残された、ほんの小さな痕跡だった。そこには、抜け道を知っている者だけが使う進め方が滲んでいる。会議室の空気が、目に見えて硬くなる。 翔馬は何も言わず、組んだ指に力を込めた。失脚させるつもりが、逆に自分たちの詰めの甘さを暴かれたのだ。碧斗はそこで初めて、相手の土台にひびが走る音を聞いた気がした。小さい。だが確かに、名門の顔に傷を入れ始めている。

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