エラベノベル堂

夜を抜ける契約

全年齢

小説ID: cmoleazcj000a01oce67ks539

8章 / 全10

碧斗が杏花からの短い連絡を見たのは、退勤間際のざわつく繁華街に入った直後だった。追手が店の動線を読んだらしい。断片的な言葉だけで状況は伝わる。碧斗は足を止めず、歩く速度をそのまま保ったまま画面を消した。 「前、見て」 杏花はすぐそばまで来ていた。いつもの明るい顔を少しだけ崩し、だが完全には崩さない。その笑顔は、通り過ぎる人には自然に見える程度に整っている。碧斗は彼女の隣に立つと、二人で人波の端へ滑り込んだ。 大通りは眩しすぎる。だからこそ、看板の光が落とす陰が使える。碧斗は店の列を背に、赤く点滅する広告の下へ杏花を導いた。そこは人の視線が上に向きやすく、足元の動きが埋もれる。追手がこちらを探している気配はあるが、真っ直ぐには寄れない。杏花はすれ違う客に対して、まるで急いで帰る店員のように軽く会釈した。その自然さが、逆に足取りを守る。 「終電、あと少し」 杏花が囁く。碧斗は駅の時刻表を一瞥しただけで、うなずいた。 「まだ乗らない。乗り場の近くは人が詰まる」 「じゃあ、どこ?」 「路地を一つ挟んで、次の角で待つ」 二人は大通りから細い通路へ流れ込んだ。派手な追走はない。ただ、看板と看板の隙間を使い、角を曲がるたびに視線を切る静かな勝負だった。碧斗は交差点ごとの人の流れを見て、追手が出てきそうな筋を外す。杏花は振り返らず、しかし人を安心させる笑みを絶やさない。立ち止まって尋ねられそうになれば、すぐに 「すみません、少し急いでいて」 と柔らかく返す。その声が、碧斗の判断を邪魔しない。 「左の路地、明るいけど狭い」 「狭いほうが、人数が揃わないと動きにくい」 碧斗が答えると、杏花は短く息をついた。 「ほんと、そういう考え方するんだ」 「褒めてる?」 「たぶん」 そのわずかなやり取りの間に、背後の足音は一度遠のいた。だが油断はできない。碧斗は駅前の大きな看板に目をやり、そこに映る人影の動きを拾う。杏花の愛想のよさは、見せかけではなく盾として働いていた。誰かに道を尋ねられれば、彼女は笑顔で二言三言を返し、その隙に碧斗が進路を変える。人目の多さが、かえって二人の逃走を覆い隠していく。 終電の案内が遠くで流れた。杏花の肩がほんの少しだけ下がる。 「間に合う?」 碧斗は前だけを見たまま言った。 「まだだ。急がなくていい。追手より先に、こちらが動線を外す」 杏花はその言葉に、困ったように笑った。だが次の瞬間、その笑みがしっかりとしたものに変わる。人を惹きつける愛想が、今は逃げ切るための機転として噛み合っていた。 人波の向こう、終電の時間を告げる表示が静かに瞬いている。碧斗は最後にもう一度、路地の奥へ目を走らせた。そこに追手の影はまだ見えない。だが見えていないだけだと知っている。杏花もまた、笑顔のまま小さく頷いた。二人は声を合わせず、同じ一歩で次の角へ消えていった。

8章 / 全10

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