エラベノベル堂

記憶を継ぐ王女

全年齢

小説ID: cmot1o27p07ki01lufke1a51m

1章 / 全10

真由は、部屋の隅に積んだ段ボールの山を見ないふりをしていた。前の仕事を失ってから、外へ出る理由は少なくなり、窓の外で動く人影さえ、自分だけが置き去りにされたようで息苦しかった。手元に残ったのは、安売りの棚で気まぐれに買った古い本だけだった。表紙には題名も薄れた金の箔が残り、指先で払うと細かな埃が舞った。中身は何度見ても読めない文字ばかりなのに、不思議と捨てられなかった。 その日も真由は床に座り込み、膝の上で本を開いた。紙は乾いて脆く、めくるたびにかすかな匂いがした。見慣れない文字の列を追っているうち、視界の端が急に白く滲んだ。最初は立ちくらみだと思った。だが、次の瞬間には足元が抜け、身体が綿のように軽くなった。誰かに背中を押されたわけでもないのに、真由は深い水の底へ沈むように意識を手放した。 目を開けると、天井が違っていた。白い布を張ったような天井の下、見知らぬ顔が何人も真由を覗き込んでいる。大丈夫ですか、殿下、と誰かが言った。その呼び方に、真由は喉の奥をひきつらせた。殿下。自分が? 冗談にしては視線が真剣すぎる。青ざめた頬を撫でる冷たい手の感触、重い寝具、窓辺に並ぶ小さな紋章。どれも夢にしては妙に鮮明だった。 侍女と名乗る少女たちは、真由を当然のように王女として扱った。言葉遣いは丁寧で、所作の一つひとつを導くように整っている。それなのに、彼女たちの知る王女の性格や振る舞いが、真由自身の感覚と少しも重ならない。鏡に映る顔は自分のものなのに、名前を呼ばれるたび胸のどこかがきしんだ。記憶が一部、薄い布で覆われているようだった。 部屋の外へ出ると、廊下には高い窓から朝の光が差し、石床の冷たさが靴越しに伝わった。城の静けさは気品に満ちているはずなのに、真由にはどこか張りつめた空気に思えた。人々は彼女に頭を下げるが、その目の奥には期待と不安が同時に宿っている。まるで、何かを待ち続けていたかのように。 そのとき、真由は手のひらの奥で、見えない糸がかすかに震えるような感覚を覚えた。空気の流れが、ほんの少しだけ色を変えた気がした。意味のわからない感触だったのに、怖さより先に、懐かしさにも似た静かな熱が胸に灯る。自分は何者なのか。ここはどこなのか。答えはまだ見えない。それでも真由は、もう元の静かな部屋には戻れないことだけを、はっきりと理解していた。

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