終電の車内は、いつもの帰り道とは思えないほど静かだった。吊り革がゆれる音と、遠くで鳴るレールの響きだけが、眠気の残る頭に薄く染みてくる。佐伯直樹は窓際の席に浅く腰かけ、スマートフォンの画面を消した。残業続きの一日がようやく終わった、その安堵に身を預けるには、向かいの存在が少し気になりすぎた。 車両にはほとんど人がいない。数えるほどの乗客も端に寄って眠っているか、うつむいているかで、互いの気配を探る必要すらないはずだった。だが、直樹の正面に座る少女だけは違った。黒い髪を肩で揺らし、制服姿にも見える整った格好のまま、相沢莉桜は退屈そうに頬杖をついている。年齢に似合わない落ち着きがあり、視線だけが妙に鋭い。次の瞬間にはふっと口元をゆるめ、からかうみたいな笑みを浮かべた。 直樹は目を逸らしかけて、結局できなかった。見てはいけないと思うほど、目が離せない。少女の表情には、無邪気さと計算が同じ顔をして混ざっているように見えた。 「そんなに見られると、こっちも困るんだけど」 声は小さいのに、やけに車内に残った。直樹は咳払いをして、平静を装う。 「見てないよ」 「ふうん。じゃあ、たまたま目が合っただけ?」 莉桜は楽しそうに首を傾げた。挑発しているのに、どこか試している。直樹はその距離感に戸惑いながらも、彼女がただふざけているだけではないことを感じ始めていた。笑っているのに、目の奥だけが妙に静かだ。車内の蛍光灯に照らされたその横顔は、年相応の軽さよりも、何かを飲み込んできた人の薄い影をまとっていた。 電車は次の駅を告げる放送を流し、ゆっくりとホームへ滑り込んでいく。誰も乗ってこない。誰も降りない。扉が閉まる音だけが、妙に大きく響いた。 莉桜はその音に、ほんの少しだけ視線を上げた。すぐにいつもの笑みへ戻る。その変化に気づいた直樹は、胸の奥で小さく息を止めた。目の前の少女は、見た目ほど単純じゃない。むしろ、単純であることをわざと見せないようにしているように思えた。 「ねえ」 また呼ばれる。直樹が返事を探す間もなく、莉桜は椅子の背にもたれ、先ほどより少しだけ目を細めた。 「あなた、意外と逃げないんだね」 その言葉の意味を測りかねたまま、直樹は窓の外に流れる暗い街明かりを見た。終電の静けさの中で、向かいの少女だけが、まるで最初からこの車両にいるべきだったみたいに座っている。彼女の笑みはまだ消えない。だがその奥に、何かを隠すための薄い膜のようなものがあることだけは、直樹にもはっきり分かった。
終電車内の挑発
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