美晴は湯気の立つ茶碗を両手で包んだまま、向かいに座る父を見つめていた。いつもより背中が丸く、スーツの袖口も少しよれている。朝の光が差し込む居間は静かで、時計の秒針だけが妙に大きく聞こえた。 「会社、もう持たない」 父の声は低く、言い終えたあとに長い沈黙が落ちた。美晴は最初、その意味をうまく飲み込めなかった。倒産。聞き慣れないわけではない言葉なのに、自分の家のこととして置かれると、急に硬い石みたいに胸へ沈んでくる。 「借金もある。ここ数日で、どうにか穴を埋めないといけない」 父は視線を落としたまま、言いづらそうに続けた。美晴の指先が茶碗の縁をなぞる。いつも通りの朝のはずだった。洗濯機の音、窓の外の鳥の声、食卓の上の味噌汁。そのどれもが、今は遠くへ押し流されていく。 「だから、少し危ないけど、すぐに金になる話がある」 その一言で、美晴の背筋が強ばった。危ない、という響きが嫌だった。父の疲れた顔を見れば、追い詰められているのはわかる。それでも、そんな道に足を入れたくはなかった。 「やめて」 思ったより強い声が出た。父がはっと顔を上げる。 「私、そんなの嫌。家のことを守るために、変なことはしない」 言葉は止まらなかった。怖くないわけじゃない。けれど、ここでうつむいたら、何かが本当に壊れてしまう気がした。 「私が働く。ちゃんとしたやり方で、家計を助ける」 父は目を伏せたまま、何も言わなかった。止めるでもなく、押しつけるでもなく、その沈黙が逆に重かった。美晴は椅子の背に深くもたれず、両手で膝を握りしめた。自分が学生で、貯金もなくて、できることが多くないのはわかっている。それでも、選びたくないものを選ばされるよりはましだった。 居間の空気は冷たかったが、美晴の胸の奥には、細い火が一つともっていた。頼れないなら、自分で立つしかない。家族を守るのは、誰かに差し出される楽な道じゃない。自分の足で探す道だ。 「待ってて。私、働く場所を探すから」 その声は、さっきより少しだけ静かだった。けれど、もう揺らがなかった。
秘密派遣
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