玄関の前まで来て、華澄は思わず足を止めた。会社の慰安旅行だと頭では分かっているのに、目の前の旅館は思っていたよりずっと立派で、門の木目から石畳の端まで、余計な緊張を呼び起こすほど整っていた。眼鏡の奥で景色は少しだけ輪郭を失い、屋根の反りも行灯の灯りも、柔らかく滲んで見える。その曖昧さが、かえって自分だけ場違いなのではないかという気持ちを強めた。 「お、来た来た。新卒の華澄ちゃん、ちゃんと迷わず来られたか?」 先に着いていた先輩の軽口が飛んできて、周囲が小さく笑う。華澄は慌てて会釈したが、うまく冗談を返せない。胸の奥で言葉を探しながら、結局、曖昧に口元を動かすだけになった。 「はい、たぶん、迷わず」 自分で言っておいて、ますます妙な空気になった気がした。先輩は面白がるように肩を揺らし、同僚たちはそれぞれ荷物を持ちながら、もう中に入ろうと促してくる。華澄はそれに従いながら、視線を下げた。石段の一つ一つは見えているのに、周りの距離感だけがいつもより頼りない。誰かの笑い声が近いのか遠いのかも、眼鏡越しには曖昧だった。 ここに来るまで、ずっと平気な顔をしていたつもりだった。朝から仕事を片づけ、駅で集合し、電車の中では頷き役に徹していた。けれど、旅館の前に立った途端、控えめで無難な自分の殻が薄くひび割れたように感じる。立派すぎる建物に気後れしているだけなのに、内心では、笑われたくない気持ちが先に立つ。視力が悪いことも、こういう場ではなるべく気づかれたくなかった。 「華澄ちゃん、そんなに硬くならなくても、今日は仕事じゃないよ」 優しい声だったが、彼女にはますます自分の緊張が浮かび上がるように聞こえた。うまく笑えず、代わりに小さくうなずく。口に出せば簡単な返事も、こういう時にはなかなか形にならない。 夕方の空気は少しひんやりしていて、玄関先の灯りの下、同僚たちの表情だけが妙に鮮やかに見えた。華澄はその輪の端で、遅れないように立つ。浮いている。そんな感覚が、靴の裏からじわじわ伝わってくる。それでも、誰も置いていく気配はない。ただ、彼女だけがまだ、その場の温度に追いつけずにいた。
湯けむり眼鏡騒動
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