朝の空気は、昨夜までの湿った騒ぎが嘘みたいに澄んでいた。美奈は神崎真人と並んで、取引先の玄関前で深く頭を下げる。昨夜のうちにまとめた謝罪の言葉は、何度も口の中で転がしたせいで、もう自分の声になっていた。 「このたびは、こちらの確認不足でご迷惑をおかけしました」 真人が続ける。いつも通り硬い声なのに、今は不思議と壁が薄い。 取引先の担当者は、意外そうに二人を見比べてから、ふっと表情をゆるめた。 「事情は聞いています。正直、こちらも連絡の受け取り方が少しずれていましたし、宿の手配まで絡んだなら、今夜の混乱も無理はありませんよ」 美奈は顔を上げた。責められると覚悟していた肩が、少しだけ軽くなる。 「……ありがとうございます」 「謝るべきところは謝っていただければ十分です。こちらも確認を急ぎます」 真人が短く礼を述べる。その横で、美奈は胸の奥に溜まっていた固いものが、ゆっくりほどけていくのを感じた。 帰り道、ホテルへ向かう歩道には朝日が低く差していた。二人ともろくに眠っていないはずなのに、足取りだけは妙に軽い。 「結局、全部つながってましたね」 美奈が言うと、真人は珍しく力なく笑った。 「宿の手違い、連絡ミス、勘違い。よくもまあ、ここまで揃ったものだ」 「私、もう少しで全部自分のせいにするところでした」 「実際、半分はおまえのせいだろう」 「ひどいです」 「だが、半分で済んだ」 その言い方が妙におかしくて、美奈は思わず吹き出した。真人も小さく息を漏らし、二人して力なく笑う。昨夜の不機嫌も、焦りも、廊下を往復した足のだるさも、今は少しだけ笑い話の形をしていた。 ホテルの角を曲がると、美奈のスマートフォンが震えた。画面には夫からの短いメッセージが表示されている。 無事ならそれでいい たったそれだけなのに、胸の奥がじんと熱くなった。 「……怒られませんでした」 美奈が画面を見せると、真人は一瞬だけ目をやって、すぐに視線を外した。 「よかったな」 その直後、真人のスマホが甲高く震えた。彼は眉をひそめて画面を見て、すぐに顔をしかめる。 「何ですか」 「別件だ」 「別件?」 「謝罪依頼が、もう一件入った」 美奈が目を丸くする間に、真人は画面を閉じた。 「俺だけ、先に地獄へ戻るらしい」 「えっ、今からですか」 「今からだ」 そう言って歩き出す背中は、やっぱり上司そのものだった。美奈はその少し先を見送りながら、ふっと息をつく。 自分の朝は、ようやくひとつ終わった。だが真人の朝は、まだ始まったばかりらしい。
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OLとして働く若妻が仕事で失敗し、地方へ謝罪に向かう。急な宿不足から、苦手意識のある上司と二人でビジネスホテルに泊まることになってしまう。上司も本来の予定をキャンセルすることになり、気まずくも慌ただしい一夜を過ごす。最初は戸惑いながらも、会話やハプニングを通して互いの距離感が少しずつ変化し、予想外の方向へ転がっていくコメディ。
