会社のビルを出たとき、慶の肩にはまだ会議室の空気が貼りついていた。乾いた空調、上司の機嫌、終わらない確認作業。全部を背負ったまま駅へ向かう気力もなく、彼はその日の帰り道を途中で切り替えた。電車を降り、さらに山あいへ続く細い道へ入る。街の明かりが遠のくほど、胸の奥のざらつきは少しだけ薄くなった。何も考えなくていい場所へ行きたかった。ただ、それだけだった。 坂を上り始めてしばらくしたところで、慶は足を止めた。道の脇、低い石垣にもたれるようにして、ひとりの少女が座り込んでいる。大きめの荷物を膝に抱え、うつむいたまま、呼吸を整えるみたいに肩を上下させていた。制服姿ではないが、学生らしい雰囲気は隠しきれていない。 「大丈夫ですか」 声をかけると、少女はゆっくり顔を上げた。少し警戒した目だったが、すぐに困ったような色へ変わる。 「……すみません。少し、疲れてしまって」 「荷物、重そうですね。宿まで行くんですか」 彼女はこくりとうなずいた。 「はい。同じ温泉旅館に」 その答えに、慶はわずかに目を細めた。こんな山道を、こんな時間に、しかも同じ場所へ。偶然にしては出来すぎている。けれど、今さら詮索するほどの元気もない。彼は彼女の足元に目をやり、無理に立たせるより先に、まず息を整えるべきだと判断した。 「じゃあ、少し休みましょう。ここで立ちっぱなしだと、余計につらくなります」 「でも、遅くなってしまいます」 「急いでも、倒れたら意味がないです」 その言い方が少しおかしかったのか、少女は小さく息をこぼした。張りつめていた表情が、ほんの少しだけ緩む。 「……ありがとうございます」 慶は石垣のそばにしゃがみ込み、自分も背中の力を抜いた。山の空気はひんやりしていて、都会で擦り減った神経には妙にやさしい。隣の少女も、まだ完全には安心していないのだろうが、荷物を抱く腕の力は最初より弱まっていた。 「無理して歩くより、並んだほうが早いです。よければ、宿まで一緒に行きませんか」 少女は少しだけ迷って、それから静かに答えた。 「はい。お願いします」 そうして二人は、山道の坂を並んで歩き出した。互いの名前も知らないまま、けれど同じ目的地だけは確かに共有している。慶は前を見ながら、久しぶりに誰かの歩幅に合わせて進む感覚を思い出していた。少女の呼吸はまだ少し乱れていたが、さっきよりは確かに軽い。慶はそれを横目に見て、今夜だけは、少しだけ誰かと同じ方向へ逃げてもいいのだと思った。
山奥で見た素顔
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