坂道を上がるたびに、慶の呼吸は少しずつ落ち着いていった。さっきまで背中に貼りついていた仕事の重さが、夜気に少しずつほどけていく。隣を歩く少女も、荷物の持ち替え方を覚えたのか、最初ほど辛そうではない。 「高瀬です」 慶が何気なく言うと、少女は歩幅を乱さずに返した。 「朝比奈です。香織、です」 「朝比奈さん」 「高瀬さん、でいいですか」 「ええ。堅苦しくなくて助かります」 小さく笑った声は、山道の暗さに吸い込まれるように消えた。名乗っただけなのに、さっきより距離が縮んだ気がするのが不思議だった。 やがて香織が、慎重に言葉を探すように口を開く。 「高瀬さんも、疲れてるんですか」 「まあ、かなり。今日は特に、会社でいろいろありまして」 「いろいろ、ですか」 「ええ。たぶん、真面目に考えるほど損をする種類のやつです」 香織は 「そういうの、ありますね」 とだけ言った。詳しく聞かない。その距離感が、慶にはありがたかった。 「朝比奈さんは、学生さんですか」 「はい。学校、ですね」 「学校も大変なんですか」 「ええ。人が多いところは、ちょっと」 そこで香織は言葉を切り、代わりに夜の道へ視線を向けた。慶も深くは聞かなかった。聞けば答えてくれそうなのに、今はその一歩手前で止まるほうがいい気がした。 人影のない山道には、靴音と呼吸しか残らない。話せることは少ないのに、沈黙が気まずくならないのが不思議だった。むしろ、黙っている時間が増えるほど、相手が近くにいると分かる。言葉より先に、歩調が合っていく。 「もう少しで着きますね」 香織がそう言ったとき、慶は自分でも驚くほど自然にうなずいていた。 「ええ。ここまで来れば、たぶん大丈夫です」 「たぶん、ですか」 「山道ですから」 「頼りになるような、ならないような」 その返しに、慶は思わず息を漏らす。香織も同じように笑った。小さな笑いだったが、夜の中で確かに温かい。 道は相変わらず暗く、遠くに宿の灯りがあるのかどうかもはっきりしない。それでも慶は、隣にいる少女がもう一人の旅人なのだと感じていた。互いに深く踏み込まないまま、それでも同じ疲れを抱えてここまで来た相手。聞きすぎず、黙りすぎず、ちょうどいい距離で並んで歩ける相手。 「高瀬さん」 「なんですか」 「さっき、声をかけてくれて、ありがとうございました」 慶は少しだけ目を見開いたあと、首を振った。 「こちらこそ。ひとりだったら、たぶんもっと遅くなってました」 それは半分冗談で、半分本音だった。 山道の先にある静かな気配へ向けて、二人はまた歩き出す。言葉はもう多くなかった。けれど、その少なさが、妙に安心だった。
山奥で見た素顔
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