エラベノベル堂

山奥で見た素顔

全年齢

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10章 / 全10

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数日ぶりに自分の部屋で聞くテレビの音は、やけに軽かった。仕事から戻った慶は、ネクタイを緩めたままソファに沈み、何となくつけた画面をぼんやり眺めていた。あの朝から、頭のどこかがずっと空いたままだった。連絡先を聞けなかった後悔だけが、出勤しても帰宅しても、同じ形で居座っている。 「……何やってんだろうな、俺」 独り言は、乾いた部屋に落ちてすぐ消えた。湯気も雨音もない。あの宿の静けさが、むしろ今になって恋しい。慶は缶を持ち上げて、ぬるくなった中身を一口飲んだ。そのとき、画面が華やかな照明に切り替わる。 人気芸能人を紹介する特集番組だった。明るい司会者の声が響き、次の瞬間、見覚えのある横顔が映る。慶は缶を持った手を止めた。 「は……」 息が漏れた。画面の中の女性は、旅館で香織と名乗ったあの少女によく似ていた。いや、似ているなどという生易しいものではない。目元の柔らかさも、少し伏せたときの癖も、湯飲みを両手で包んでいた指先の印象まで重なる。だが、字幕に続いて出た名前は、まったく別世界のものだった。 人気アイドル、朝比奈香織。 慶は思わずテレビの音量を下げた。番組の中で彼女は、笑顔を崩さずに受け答えしている。疲れた日常から少し離れて、山奥の宿で心を整えたことも、軽やかに語られていた。慶は画面を見つめたまま、言葉を失う。 あの静かな旅は、偶然じゃなかったのかもしれない。誰にも見られない場所で、ただの自分に戻りたかったのだろう。そう思うと、胸の奥に残っていた戸惑いが、少しずつ別の熱に変わった。彼女は逃げていたのではない。守るべきものを抱えたまま、ほんの短い隙間を探していたのだ。 慶はテレビの中の笑顔を見て、静かに息を吐いた。 「そりゃ、言えないよな」 連絡先も本名も、あの夜には要らなかったのかもしれない。見知らぬ相手として向き合えたからこそ、あれだけ素直な時間が生まれたのだ。そう気づいた瞬間、驚きは不思議と落ち着いていった。代わりに残ったのは、彼女が素顔を見せてくれたことへの、静かな誇りだった。 画面の向こうで、朝比奈香織は明るく笑っている。けれど慶の中では、雨の縁側で湯飲みを包んでいた横顔のほうが、ずっと鮮明だった。 忘れられない一夜は、もう戻らない。だが、戻らないからこそ、確かに胸の奥にしまえる気がした。慶はリモコンを膝の上に置き、少しだけ目を閉じる。あの山の静けさと、名を隠した彼女の気配だけを、そっと心の奥へ押し込んだ。

検閲済みプロット

仕事に疲れ、すべてを忘れるために山奥の温泉旅館へ向かう主人公。途中で疲れて座り込む女子学生を見つけ、一緒に歩いて向かう。客は2人だけで、周囲に観光地もないため、二人でゆっくり過ごす。夕飯を一緒に食べ、お酒を飲みながら話を聞くうちに、女子学生も同じように疲れていて、気分転換のために温泉宿へ来たと知る。二人は夜更けまで親しく過ごす。朝起きると女子学生はすでに宿を離れていた。日常生活に戻った主人公は連絡先を聞けなかったことを後悔していると、ふとテレビで女子学生を見かける。実は女子学生は人気アイドルだった、というオチ。

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