エラベノベル堂

山奥で見た素顔

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9章 / 全10

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慶が目を覚ましたのは、障子の向こうが白み始める少し前だった。眠りの底から引き上げられた頭は重く、昨夜の余韻がまだ畳の匂いに溶けている。しばらく天井を見つめてから、慶はゆっくりと体を起こした。 隣に置いた香織の気配は、もうなかった。部屋の空気だけが妙に整っていて、さっきまで誰かがそこにいたことを逆に強く伝えてくる。慶は視線を畳へ落とし、次に布団のほうを見た。香織の敷布団は、きれいにたたまれている。逃げるようでも、急ぐようでもなく、ただ跡を残さないように整えられていた。 「……先に、起きたのか」 思わずこぼれた声は、自分のものとは思えないほど弱かった。慶はのろのろと立ち上がり、卓へ目をやる。そこに、小さな紙が一枚だけ置かれていた。折り目のついた白い紙。指でそっと広げると、そこには連絡先でも住所でもなく、短い言葉だけが並んでいた。 ありがとうございました。 たったそれだけだった。なのに、胸の奥がすとんと抜け落ちる。 「何なんだよ……」 文句のつもりで呟いたのに、声は空虚に響くだけだった。昨夜の湯気、沈黙、少しだけ触れた距離感。それらが全部、夢だったのではないかと疑いたくなる。慶はメモを持ったまま窓辺へ歩き、障子を少しだけ開けた。 外はまだ薄い青に沈んでいて、山の輪郭がゆっくり浮かび上がりつつある。雨上がりの空気は澄んでいて、遠くの木々が静かに濡れていた。旅館の庭も、石も、湯気の立つどこかの気配も、すべてが昨夜と同じはずなのに、香織だけがいない。 慶は窓枠に手をつき、しばらく動けなかった。 現実感が、遅れて追いかけてくる。たしかに話した。たしかに笑った。たしかに、あの沈黙の中で互いを見ていた。そう確かめるほど、今ここに残っている不在が重くなる。 「……ちゃんと、現実だったんだな」 誰に向けた言葉でもない。返事もない。ただ、朝の冷たさが指先から静かに忍び込んでくる。慶はメモをもう一度見下ろし、丁寧に折り直した。紙の端が少しだけ震える。 扉の向こうから、まだ誰かの足音はしない。旅館は目を覚ましきる前の静けさに包まれていて、その静けさだけが昨夜の続きのように思えた。慶は窓の外を見つめたまま、香織が消えた空白を受け止めきれずにいた。

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