宿の玄関は、思っていた以上に静かだった。引き戸を開けた瞬間、外の山気が背中でふっと途切れて、磨かれた床の匂いと、かすかな湯の匂いだけが迎えてくる。帳場の奥から出てきた年配の女将は、慶と香織を一目見て、慌てるでもなく穏やかに頭を下げた。 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」 その声も、廊下を渡る足音も、ここではやけに低く響く。女将が差し出した鍵を受け取りながら、慶はちらりと周囲を見回した。観光客のざわめきはない。売店らしい明るさもない。あるのは、遠くで湯が流れる音と、壁の向こうへ吸い込まれていく沈黙だけだった。 「……ほんとに静かですね」 香織が小さく言うと、女将は微笑んだ。 「今夜はお二人だけですからね」 その言葉に、慶は思わず香織を見た。香織もわずかに目を丸くしている。二人だけ。その響きは、歓迎よりも、世間から切り離された感覚を強くした。ここには、気を遣う相手も、聞こえてくる噂もない。ただ、湯の音と自分の呼吸だけがある。 「お食事までは少しお時間がございます。お部屋でおくつろぎください」 女将に促され、二人は別々の廊下へと案内された。部屋に入ると、畳はしんと冷えていて、障子越しの光は薄い。慶は荷を下ろし、上着を脱いで深く息をついた。山道を歩き終えた疲れが、ようやく足元まで下りてくる。 香織も向こうの部屋で、静かに荷ほどきを始めているのだろう。戸を隔てただけの気配が、かえって近い。慶は耳を澄ましたが、聞こえるのは布が擦れる音くらいで、すぐにそれも消えた。 整いすぎた静寂だった。落ち着くはずなのに、落ち着きすぎていて、かえって自分の息づかいが目立つ。慶は座布団に腰を下ろし、旅館の天井を見上げた。会社でも学校でもない場所。誰にも急かされない場所。そう思うと、胸の奥に張りついていたものが少しずつ剥がれていく。 壁の向こうで、香織も同じようにこの静けさを受け取っているのだろうか。考えたところで答えは出ない。それでも、同じ宿にたどり着いたというだけで、妙に心が落ち着いた。 慶はまだ解き終わらない荷物に手を伸ばしながら、この夜が長くも短くも感じられることに、少しだけ戸惑っていた。
山奥で見た素顔
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