引退のニュースを見た瞬間、画面の文字がじわりと滲んだ。何度も見返して、どこかに冗談だと書いてあるはずだと探したのに、そこには静かな終わりだけがあった。俺はスマホを伏せたまま、送別資料の最終ページを整える。紙の端を揃える指先が、ひどく頼りない。 「一真さん、これで最終確認お願いします」 背後から声がして、反射的に顔を上げた。後輩の手元にあった名簿がこちらへ差し出される。いつもなら淡々と受け取るだけなのに、その日だけは胸の奥が空っぽで、うまく笑えなかった。 「……ありがとう」 そう返した直後、営業フロアの空気が少しだけざわついた。人事の担当が来たらしく、数人の視線が入口へ向く。俺もつられて顔を向ける。そこに立っていた新入社員は、白いブラウスに緊張の色を薄く乗せた、どこにでもいそうな若い女性だった。なのに、息が止まった。 長年、画面の向こうで見続けたあの横顔に、あまりにも似ていたからだ。 「本日から配属になりました、美桜です。よろしくお願いします」 低すぎず高すぎず、澄んだ声だった。俺の知るその人と同じ名前を持つ彼女は、軽く頭を下げる。周囲は普通に歓迎している。なのに俺だけが、足元の床が少し傾いたみたいに落ち着かない。 「一真さん、隣、空いてますよね」 先輩のひとりがそう言って、彼女を俺の横へ案内した。椅子が引かれ、紙の擦れる音がやけに大きく聞こえる。美桜は礼儀正しく会釈して、静かに荷物を置いた。 「今日からお世話になります。分からないこと、教えてください」 その一言だけで、喉が詰まる。視線を合わせれば終わる気がして、俺は資料の山に逃げた。 「……ああ。よろしく」 それからは、送別資料の修正、クライアント向けの文面確認、終わりかけの数字の照合。いつも通りの作業を、いつも通りにこなすふりをした。だが、隣の席でキーボードを打つ気配が、少し動くだけで気になってしまう。髪を耳にかける仕草、ペンを持ち直す癖、ふとした瞬きまで、全部が記憶を引っ張ってくる。 違う。似ているだけだ。 そう頭では言い聞かせるのに、視界の端に彼女がいるだけで、仕事の文章がまとまらなくなる。画面に打ち込んだはずの文が、何度も同じ行で止まる。 「一真さん、大丈夫ですか」 不意に美桜がこちらを見た。驚いて顔を上げると、彼女は何でもないように首をかしげる。 「なんでもない。ちょっと、今日は集中しづらくて」 言い終えてから、自分で自分の声が硬いと思った。美桜は小さく笑うでもなく、ただ穏やかに頷く。 「初日ですもんね。無理しないでください」 その優しさが、なおさら苦しかった。喪失感を抱えたままの俺の隣に、同じ名前をした、あまりにも似た新人が座る。仕事に戻ろうとするたび、視線が勝手に吸い寄せられる。俺はようやく悟った。今日はもう、いつもの平静な自分ではいられそうにない。
瓜二つの部下
全年齢小説ID: cmplg47ry0o9a01pktdy8wecu
