片づけ終えた会議室は、夜の名残を薄く引きずったまま、窓の向こうを淡い朱色に染めていた。外の空が白みはじめると、残っていた書類の影まで妙にくっきり見える。俺は乱れた資料をひとまとめにしながら、やっと口を開いた。 「なあ、美桜」 彼女は最後の紙束を揃えたまま、こちらを見ない。けれど、その沈黙が返事より先に、何かを待っているようだった。 「お前、本当に何者なんだ」 言ってしまってから、喉の奥がひりつく。ここまで来て、ようやく聞けた。なのに、美桜は名乗りもせず、ただ書類の山の向こうで、唇の端をわずかに持ち上げた。 「先輩は、やっと聞くんですね」 「はぐらかすな」 「はぐらかしてませんよ」 そう言って、彼女はニヤリと笑う。その笑みが、夜のあいだに何度も見せられたものと同じで、俺は言葉を失った。 そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてくる。出社してきた同僚たちだ。ドアが開き、誰かが眠そうに挨拶をする。 「おはようございます。あれ、一真さん、もう来てたんですか」 「美桜ちゃんも早いね」 美桜は何事もなかったように会釈した。 「おはようございます。少し片づけていました」 同僚たちは彼女を見ても、驚きもしなければ、妙な空気も感じていない。まるで最初からそこにいるのが当然みたいに、自然に雑談へ溶け込んでいく。 「そういえば、美桜ちゃんの席、資料だけ山になってるぞ」 「すぐ直します」 「履歴書、どこに置いたっけ」 そんな会話まで交わされたのに、誰も首をかしげない。俺は思わず周囲を見回した。あれほどはっきりここにいたはずなのに、彼女の所在も、いつからこの部署にいたのかという記憶も、手の中の砂みたいに掴めない。 「一真さん?」 美桜の声が、すぐ横から落ちてくる。 振り向くと、彼女は変わらない笑みを浮かべていた。だがその目だけが、俺にだけ向いている。 「まだ、続きますか」 答えられない。いや、答えるための材料が、どこにもない。 同僚たちの明るい声が背後で重なり、朝の仕事がいつも通り始まっていく。その中心にいるはずの美桜だけが、履歴も素性も曖昧なまま、当然の顔でそこに立っていた。 俺は最後にもう一度だけ、彼女の笑みを見た。引退した女優のものにあまりにも似た、あのニヤリとした表情を。 そして結局、真相のないまま、朝だけが静かに進んでいった。
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いつも応援していた憧れの映像女優が引退した。その後しばらくして、彼女にそっくりな女性が会社に入社し、主人公の部下になる。本人かどうか確証はないが、主人公は気のせいだと割り切ろうとする。ある日、二人きりで残業することになり、主人公が過去に見た印象的な作品のワンシーンを思い出すと、彼女がその場面に似た行動を取り始める。やがて二人の距離は急速に縮まり、思いがけない親密な出来事へ発展するが、彼女が本人かどうかは最後まで明かされない。最後に彼女が意味ありげに笑う、コメディ寄りのミステリアスな物語。
