エラベノベル堂

透明な境界線

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10章 / 全10

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講堂の裏は、舞台袖のざわめきが壁越しにかすかに伝わるだけで、妙に静かだった。遠くでは笑い声や呼び込みの声が重なっているのに、ここだけ切り離されたみたいに空気が薄い。涼は立ち止まり、隣で深呼吸する美咲を見た。 「緊張してる?」 「少しだけ」 「少し、か」 「涼は?」 「……してる」 美咲がくすっと笑う。その笑い方が、昔みたいに試すためのものではなくなっているのがわかった。涼は自分でも意外なほど、静かな気持ちで彼女の手を取った。指先が触れた瞬間、胸の奥にあったざわめきがすっとほどける。 「美咲」 「うん」 「俺は、もうお前の気持ちを見なくてもいいと思ってる」 美咲の目が少しだけ見開かれた。涼はそのまま続ける。 「見えたから近づけたんじゃない。近づきたいと思ったから、ここまで来た」 「……涼」 「だから、頼りたくない。お前の本音を当てるんじゃなくて、ちゃんと聞きたい」 言葉にするたび、自分の中にあった曖昧なものが形になっていく。美咲は何も言わず、けれど手を引かなかった。涼はその沈黙を怖いとは思わなかった。 「私も」 ようやく落ちてきた声は、驚くほど軽かった。 「見えないと不安だったけど、今はちがう。涼がそう言ってくれるなら、それでいい」 「それで、いいのか」 「うん。だって、私も見なくても選びたい」 涼は息を止めた。いつか能力が示していたものより、今の言葉のほうがずっと確かだった。美咲はふっと目元を緩める。 「それにね」 「なんだ」 「さっきから、涼の顔がすごく真剣」 「当然だろ」 「ふふ。昔なら、そこで誤魔化してたのに」 からかう声に、もう棘はない。涼は少しだけ肩の力を抜いた。 「誤魔化す必要がないからな」 「うん」 美咲が小さく頷く。その瞬間、手のひらのあいだにあった妙な感覚が、音もなくほどけていくのがわかった。何かが消えた、と言うより、最初から必要なかったものが静かに退いたみたいだった。 「……あ」 美咲が短く声を漏らし、自分の手を見下ろす。涼も同じようにしたが、そこにはもう、以前みたいな揺れはない。代わりに、ただ温度だけが残っていた。 「どうした」 「何でもない」 「何でもない顔じゃない」 「だって、ちょっとだけ不思議なんだもん」 美咲は笑った。さっきまでより、ずっと自然に。 「見えなくなったのに、前より近い」 「同感だ」 「じゃあ、もう十分かな」 「十分だ」 涼はそう答えてから、改めて彼女の手を握り直した。互いの心を覗き込む必要はない。選ぶと決めた手の温度が、もう答えだった。 背後で、舞台へ出る人たちの足音が近づく。呼ばれる前のわずかな静けさの中で、二人は顔を見合わせた。美咲はうなずき、涼も同じように返す。 「行こう」 「うん。行こう、涼」 その呼び声に、もう迷いはなかった。

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成績優秀だが感情表現が苦手な学生・涼は、クラスメイトの美咲から「触れた相手の心が見える特殊能力」を持つと告げられる。二人きりになるとその能力が鋭敏になり、距離を縮めるほど互いの本音が可視化され始める。最初は戸惑う涼だが、美咲の「本当の気持ち」に気づいていくにつれ、自分自身の感情にも向き合い始めることになる。触れることの緊張感と本音を交わす瞬間が重なり合う中、二人は互いの心が開かれていくのを感じる。日常の何気ない瞬間と心理的に親密なシーンの境界が透明になっていく過程を描く。

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