交差点の信号が青に変わる少し前、涼は隣を歩く美咲の呼吸がいつもより静かなことに気づいた。昨夜までの距離は、消えたわけではないのに、足音の間にすっと溶けている。並んで歩くだけで、言葉にしなくてもわかる気がした。 「おはよう」 「……おはよう。今日は妙に素直だな」 「そうか?」 「うん。顔も少しやわらかい」 涼は反射的に否定しかけて、やめた。美咲がほんの少しだけ笑う。信号待ちの短い沈黙さえ、気まずくない。そのことが、妙にくすぐったかった。 「涼」 「なんだ」 「昨日までと、ちょっと違うね」 「そりゃ、あれだけ話せばな」 「そういう意味じゃないよ」 美咲は横断歩道の向こうを見たまま、声を落とした。涼はその横顔に、昨夜の部屋で見たものを思い出す。踏み込むのを怖がっていた顔が、今は少しだけ落ち着いている。 「ねえ、涼」 「うん」 「最近さ、能力があんまり働かないの」 足が止まりそうになった。だが、涼はそのまま立ち尽くさず、ゆっくり息を吐く。 「そうか」 「驚かないの?」 「驚くけど、怖くはない」 美咲は視線だけをこちらへ向けた。試すようでもあり、確かめるようでもある。 「本当に?」 「本当だ」 涼は言い切ってから、自分でも少し驚いた。見えなくなることを恐れるより先に、今ここで話している美咲の声のほうが、ずっと重かった。 「見えないなら、困る?」 「困らない」 「強がりじゃない?」 「違う。見えなくても、お前が何を言いたいか考えるくらいはできる」 美咲は瞬きをして、それから小さく息を漏らした。 「それ、ずるい」 「何がだ」 「能力より先に、ちゃんと私を見ようとするところ」 涼は少しだけ目を逸らした。だが、その言葉を否定する気にはなれない。見えないからこそ、曖昧なまま流さずに言葉へする必要がある。そんな単純なことを、ようやく知った気がした。 「……たぶん、今までは便利に頼りすぎてたのかもな」 「私も」 美咲の返事は意外なほどあっさりしていた。 「見えれば安心できるって思ってた。でも、見えない時間があるから、選んで言うしかなくなるんだね」 「選んで、か」 「うん。適当に当てるんじゃなくて、本音で」 信号が青へ変わり、通り過ぎる車の音が遠くで重なる。二人はまだ動かず、向かい合うほどでもなく、同じ方向を見るふりをしながら気持ちだけを寄せ合っていた。 「涼」 「なんだ」 「私、今なら少しわかる気がする」 「何を」 「見えなくても、言葉にしたほうがいいこと」 涼はうなずいた。喉の奥にあった迷いが、ひとつずつほどけていく。 「じゃあ、これからはちゃんと言う」 「うん」 「お前もだぞ」 「言われなくても、言うよ」 美咲の声はやわらかい。けれど、そのやわらかさの中には、もう逃げの響きがなかった。涼はそれを聞いて、胸の奥で静かに息をつく。 能力が消えかけているのだとしても、今この瞬間の気持ちは曖昧じゃない。見えないからこそ、本音だけを頼りに進むしかないのだと、二人とも気づきはじめていた。 「行こうか」 美咲がそう言い、涼は短く頷いた。交差点の向こうへ踏み出す足取りは、昨日までより少しだけ確かだった。
透明な境界線
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